Webmasterがオーディオ業界で体験したことの暴露ネタです。
時事の話題コーナーは1ヶ月間休載することを決定しました。 オーディオ業界のコーナーは、過去に行われたオーディオ業界の悪事を暴露するコーナーであって、webmasterが争いを挑むコーナーではありません。 よって、こちらは継続します。
2018年に商談したコイズミ無線や、連絡の途絶えた麻倉怜士氏について、その理由として「webmasterの誹謗中傷を吹き込んだ悪人がいる」という匿名のタレコミも受け取っています。 Webmasterの収入が安定して、最低でも2001年レベルに戻るまで、オーディオ業界の悪事を暴露し続ける予定です。
最近もwebmasterは職探しのために、moffersというサイトに登録しました。 運営しているリクルートがプロフィールに難癖をつけてきて、いまだにwebmasterのプロフィールは企業に公開されていません。
相変わらず、webmasterへの嫌がらせは続いています。 今、一番問題にしているのは、重要人物とのコミュニケーションを邪魔されていることです。 まだ続くようであれば、悪事の暴露よりも強力な反撃手段を考えなければなりません。 関係者は、自発的に馬に蹴られて死んでくれないかなぁ。
相変わらず、webmasterへの嫌がらせは続いています。 重要人物とのコミュニケーションも復活しません。 でも、暴露できるネタがつきました。 そもそも30年も前のことなんて、半分も思い出せません。 一旦暴露はストップしますが、思い出したらその都度書きます。
1989年のことです。 林エンジニアがブラウン管向けの消磁器で遊んでいました。 色ズレを取ってくれるのならありがたいのですが、逆に正常なディスプレイに着磁してよろこんでいました。
Webmasterが大学院修士課程を修了した直後に就職した会社です。 就職活動中の予定では、別の厚木にある部所に行くはずでした。 学生時代のアルバイトの関係で、Oh! HitBit Vol.1 のライターが集まってKビルを訪問したことがありました。 この時お会いした福田課長がユーモアたっぷりなアイディアマンで、世間一般の人がまさにソニー㈱に抱くイメージ通りの製品企画を連発していた人でした。 Webmasterは就職活動の時に福田課長に再会して、部下として配属してもらえるようにあちこちに根回しを済ませておきました。
これをひっくり返したのが、修士課程の指導教授所眞理雄氏です。 当時、福田課長が数理技研に部下を二人(手塚氏と堀氏)出向させてunixワークステーションを設計させていました。 このワークステーションの開発成果を福田課長から横取りして、事業本部を新しく作り事業本部長に任命された土井氏がいて、その部所へ行くように指導教授から強い圧力を受けました。
先日お会いした意識高い系の人アーキタイプ社長中島氏によると、「あなたの人生を選択したのはあなた自身。そんな指導教授のもとに行ったのが悪い。」だそうです。 勝組の意識高い系って、自己責任論で自分を肯定しながら他者を見下すのが大好きですね。
ワークステーション事業部に配属されてみると、開発体制はグズグズでした。 まるで高校生の学園祭みたいなアバウトすぎるノリで開発していました。 ソフトウェアを開発するのに、設計資料を全く書かずに突然ソースコードを書きはじめてしまうプロセスは、1980年代のダメなソフトウェアハウスのようです。 他社から転職してきた人たちは口を揃えて「ソニー㈱のエンジニアは、技術力は他社と同レベルしかないのにプライドだけは超一流だ」と言っていました。 2016年でも、このアバウトさは変わっていません。 その証拠に、ソニー㈱の設計、開発部門はどこもISO9000シリーズを取得できていません。 工場は取得できているようですが。
ソニー㈱の研究部門、開発部門には、webmasterより能力の高いエンジニアが自薦、他薦合わせて1000人以上いました。 Webmasterは選抜試験でも強制されない限り、自分より能力の高い人が近くに何人いても気にしません。 相談に乗ってもらえるのであれば、周りに能力の高い人が多いほうが安心できます。 でも、能力の高い人程、わざと間違った技術論を展開し、わざと誤った設計をして、プログラムや回路図にわざとバグを仕込むのが不思議です。 「まだ本気出していないだけ」なんでしょうけど、いつまで待っても本気を出してくれません。 しかもプログラムや回路が正しく働くように修整方法を提案すると、怒ってみせます。 バカな凡人の代表であるwebmasterには、能力の高い人達が何を考えているのか全くわかりません。
オーディオやコンピューターに関して、ソニー㈱の能力の高い人達とさんざん意見が衝突しましたが、結果が出た後で確認すると8割以上はwebmasterの方が正しいことを言っていました。
ソニー㈱のエンジニアが全て「本気出していない」わけではありません。 人数にして1割位のエンジニアは、『能力高いぞアピール』を全くしませんが、webmasterよりよっぽど丁寧で確実なアウトプットを出します。 この1割と仕事を丸投げされた外注が、今のソニー㈱を支えています。 でもマネージャーとして出世して行くのは、能力高くてわざと間違った仕事をする人なんですよね。
能力の高い人が、わけのわからない技術論を振りかざしてしまう状況を説明できるヒントに気づきました。 他のコーナーに書きましたが、「データシートの行間を読め」なんて言う人がいるのです。 『自然科学の教科書』『技術論』『データシート』『法律』などは、書かれている文言が全てで、行間などを勝手に想像した日には、どこか遠い異世界に転生してしまいます。 集団で転生に成功して、『と学会』が喜びそうなつくり話を信じているエンジニアもたくさん見ました。
自分の過去をふりかえると、日本の国語教育では言葉と感情表現の関係についてくどく教わりますが、理屈で他人を説得したり合意したりする訓練はめったに行われません。 おかげで、技術論を戦わせている時に感情論にすりかえて話を曖昧にするマネージャーがたくさんいます。
日本人が英会話やグローバリゼーションを苦手とするのは、価値観が異なる人と理屈で話し合うことができないからです。 単語や文法、慣用句をいくら暗記しても、相手の立場に立って話をしない限り、相互理解はありえません。 日本の首相でさえ、米国大統領と一緒にゴルフしてゴマをすることしかできません。 ゴマすりで利益を誘導するには、夏目漱石『坊っちゃん』の『のだいこ』みたいにべったりコバンザメをしていないと、別のゴマすり人間に美味しいところを持って行かれてしまいます。 相手の唱える理屈の急所をグサッとついて、自国のために妥協を引き出すことのできる政治家は、田中角栄あたりでおしまいでしょうか。 故盛田氏は石原氏と共著で、『Noと言える日本』という本を書きましたが、今権威に向かってNoとはっきり言える人は何人いるんでしょうね。
ネットで興味深い記事を見かけました。
「自分にごほうびする人」は幸せになれないこの記事では「根拠のない自信を持て」と勧めています。 ソニー㈱の『能力高い人』は、「成果を出さなくても大きな口をたたいていていいんだ」と自己肯定していることでしょう。
「根拠のない自信を持て」について考えていたら、今年(2017年)に某教育者から聞いた話を思い出しました。 「『ゆとり教育以降の世代』が何かと槍玉に上がるのは、彼らが受けた誤った教育方針に原因がある」という話です。 話してくださったのは人格者(webmasterからみて、仕事の能力、成果、論理的思考力、洞察力、安定した感情、他者への思いやりが高いレベルにある人 NHK朝ドラの『ひよっこ』登場人物みたいな人)です。 その人の話では、日本人幼少期の教育において「根拠の有無に関わらず自信を持たせよう」という教育方針がとられた時期があって、その時期に育った人物は本当に『根拠のない自信』を持ってしまい様々なトラブルを生んでいるそうです。
具体的には創立100年を超える大学のサークル活動で、運営を任された上級生同士の意見が衝突した時、だれも衝突を調整する方法を学んだり体験していないためエゴ同士のぶつかり合いで収集がつかなくなり、単なる喧嘩がこうじてそのままサークルが解散してしまうと言っていました。
WWII以前に作られて70年以上の歴史を誇るサークルでも、現役学生があっさり廃部にしてしまうのでOBが困惑しているとか。
Webmasterが、「エレクトロニクスに例えると、Positive Feed Backのかけ過ぎで暴走しているような感じですね」と言ったら「まさにその通りだ」と言われました。
コンピューターRPGゲームに例えるならば、困難なクエストをいくつも乗り越えるためのキャラクタは多くのスキルをバランスよく持っていたほうが良いし、初期段階では生き残るために攻撃力よりも耐久力や治癒能力が重要になります。
今の若者は攻撃力だけ強い使い捨てキャラクタがほとんどなんでしょうね。
それでは、誰かに使い捨てにされて終わってしまいます。
本望ですか?
ネットで興味深い記事を見かけました。
子どものやる気を引き出す「根拠のない自信」の育て方とは?<前編>この記事でも「根拠のない自信を持て」と勧めています。 Webmasterの目線から見ると、『幼少期のやんちゃな子供に手を焼いたら根拠のない自信をつけさせておとなしくさせろ。成人後のことは知らないよ。』と言っているように見えます。 また、「根拠のない自信を持つこと」と「愛情で満たされていること」をあえて混同しているようにも見えます。
記事の冒頭では「4000名のグローバル人材を輩出してきた著者が」とありますが、著者だけで4000名ものグローバル人材を排出輩出しているのに日本のグローバル化が進んでいないのはなぜでしょうか?
後編を楽しみにします。
ソニー㈱でNEWS向け音声フォーマット変換ライブラリを書いていた時の話です。 変換ライブラリを使用するアプリケーションを担当していた外注ソフトウェアハウス(ハイパーウェアとかいう会社だった)から、金曜日の夕方に「お前のライブラリがバグっていて音が出ないぞ!すぐ来い」とクレームが入りました。 田中統括課長(相磯・所研究室の先輩でネガティブな発言しかしない人)の指示で翌日土曜日の午前9時に東大赤門前にあるソフトウェアハウスを訪ねました。 社長が応対に出て、「今アルバイトの学生が授業を受けているから、出社するまで待ってくれ」と言われ、何もすること無く待ちました。 午後4時にやっとアルバイトがやってきて作業したところ、webmasterが作成したライブラリには何の問題もなく、石野氏が担当していた音声デバイスドライバの未実装の機能を使おうとしていたのを確認できました。
自宅に帰った時webmasterの父(昭和一桁のカミナリオヤジ)に、「今日お前にやらせるはずだった家事が溜まっている。どうやって埋め合わせするんだ!」と説教されたのは言うまでもありません。
就職から3年後に指導教授(所眞理雄氏)のところへ行って会社ぐるみのパワハラについて相談したことがあります。 「なんで君は自分のやりたい仕事を選ばないのか?」とこのとき説教されたので、所氏は自分が指示したことをすっかり忘れてしまったようです。
2002年のことです。 Webmasterが勤めていた米国系外資企業CadenceのOrCAD事業本部が全世界でリストラされることになり、webmaster自身も次の職を探していました。 所研究室の1年後輩豊君に紹介してもらって、『Sony Computer Entertainment社』にゲーム企画を売り込んでみました。 企画書をメールで送って、10往復ほどメールをやり取りした後のことです。 突然「社内の企画と同時に同じ提案が来ることがあるので、外部からの企画提案は受け付けません」というルールを教えられて、交渉が終わりました。 提案したのと似たゲームは数年後に発売されました。
2010年ころのことです。 クウジット㈱の仕事を手伝っていたwebmasterは、CEATEC会場で豊君と再開しましたが、ガン無視されました。 2002年に紹介したはずのSCE社の仕事がポシャったので、顔向けできないと恥じていたのでしょう。
2015年のことです。 ソニー㈱の大崎ビルに常駐するために、毎日松戸からJRで通勤していました。 山手線車内のディスプレイや大崎ビルの2階エントランスでは、北川景子が出演した動画で4Kテレビを宣伝していました。 大崎17階の職場で、動画の感想として以下のネタを話したことがあります。
2016年夏、本社に吸収されたTVゲーム部門の発表会で、3番めのネタを使っていた人がいたという話をネットで見ました。 日本には1億人の人が生活しているので、ネタがかぶるのは日常茶飯事です。 けれど、ソニー関連会社の正社員は自分たちが疑われないように行動する習慣を身につけないと、トラブルを自ら招きます。
ネットで興味深い記事を見かけました。
仕事の極意はゴマをすり根回しで味方をつくること記事の主張を否定する根拠として、ゴマすり根回しでプロジェクトが危機に陥った具体例を書きます。
2015年7月からwebmasterは、ソニー㈱に常駐してオーディオの開発を手伝っていました。 回路設計でいきあたりばったりにCADを使い、職場でレビュー会を行わないので、下請けが試作基板を量産してきた時点でソフトウェア屋の私でもわかる問題が残っています。 例えば、I2C線のプルアップ抵抗を入れ忘れているとか。 それを担当者に指摘しようとすると、課長補佐に「職場の雰囲気が悪くなるから、他人の仕事のミスを指摘するな」と言われて修正が先送りされ、量産直前まで(場合によってはラインが動き出した後でも)回路のミスが残っています。 そもそも、ハード屋のレビューで発見すべきポカミスをソフトウェア屋に発見させておいて、自分のミスを指摘されると腹を立てるようなメンタルを持ったエンジニアを現場に配置していることが問題ではないでしょうか。 しかも、逆方向に正社員が外注のミスを指摘するのは、制限なしです。 正社員のミスを外注のせいにされることも日常茶飯事でした。
2016年モデルの最初の製品は出荷時にわかっているバグが数百件ありました。 現場は「2ヶ月後に予定されているファームウェアのアップデートで対応できれば良い」と言い訳していましたが、結局数カ月後にリコールがかかりました。 リコールの口実は「リチウムイオン電池の充電異常」でしたけど、同時に100件以上のバグも直していると思います。
なんか昨日、今日あたりでつきまとい業者がまた入れ替わったみたいです。 「自分の努力の不足を反省しろ」という匿名メッセージが届いたので、指示通りに暴露を再開します。
「意識高い系」社員につけるクスリはないこんな記事を見つけました。 書かれていることには同意できる内容も、同意できない内容もあります。 特に、『意識高い系の発病原因』を『スクールカーストの低位にいたこと』と根拠不明で結論づけているのが納得行かないので、実例を上げて反論します。
記事中では、人間を以下の二つに分類しています。
Webmasterは、実家として不動産はあるけど相続税を払ったらなくなりそうで、スクールカースト下位で、認証欲求以前に生活費を稼ぐことに苦労しています。 記事に出てこない『裕福でスクールカースト上位だったけど、認証欲求が強い強欲人物』を何人も思い出せます。 アンジーの曲『すべての若き糞野郎ども』の歌詞「♪金もないコネもない体は病弱で頭も悪い」をテーマに暴露してみます。
VAIOの課長をしていたイケメン末吉君(所研究室の3年後輩)は、奥さんと二人の娘がありながら、部下の派遣会社女子社員に手を出そうとして左遷になりました。 派遣会社女子社員は、ソニー㈱の正社員になりました。 末吉君は会社を飛び出してクウジット㈱の社長になりましたが、承認欲求が強いせいでリンク先の記事の説明のように、仕事の成果よりもツイッターや会社のプレスリリースで注目されることを優先しています。
お金持ちの土井氏は、ソニー㈱の創業会長盛田氏が持っているヨットの保管場所をつきとめ、自分のヨットを隣に置いて毎週末待ち伏せしていました。 盛田氏と偶然を装って出会った後、自分を売り込んで福田課長の仕事の成果を横取りし、見事事業本部長に収まりました。 WikipediaやソニーのWEBには、土井氏がNEWSのプロジェクトを始めたような記述がありますが、ウソです。
土井氏のヨット以前の仕事がNHKで放映されるそうです。 NHK BSで「CD開発“不良社員”たちが起こしたデジタル革命」21日21時放送 確かに不良社員だわ。お見逃しなく。Webmasterは見ません。
お金持ちの所眞理雄氏は、慶應義塾大学の教授からソニーCSL副所長兼任を経てソニー㈱の取締役になりました。 その時に、学生結婚した奥さんと離婚し二人の子供を放棄して、別の若い女性と再婚しました。 所氏の教授時代に「ワークステーション事業部のエンジニアは『ベンチャーを起こしたい』とか気軽に言うが、MBAもとらない身分でちゃんちゃらおかしい」と言っていたのを記憶していますが、本人は取締役になった後もMBAを取得していないようです。 「パリに研究所を作ってフランス政府に勲章をもらったが、日本政府はケチだから日本の研究所に勲章をくれない」とも言っています。
先日お会いした意識高い系の人(アーキタイプ社長中島氏)によると、「あなたの人生を選択したのはあなた自身。そんな指導教授のもとに行ったのが悪い。」だそうです。 勝組の意識高い系って、自己責任論で自分を肯定しながら他者を見下すのが大好きですね。
元記事には、意識高い系は会社に長居しないと書いてありますが、逆に意識高い系ばかり呼び寄せている会社があります。 まるで、一度船舶が迷い込むと2度と脱出できないサルガッソー海のような会社です。 取締役も意識高い系ですし、経営方針も意識高い系です。 真面目に技術を研究開発する代わりに、既存技術を組み合わせて目先のデザインや奇をてらった機能で新製品を売り込もうとしています。 ソニー㈱のことであると、ここの文章を読んでいる人にはわかりますね。
ソニー㈱とは関係ないけれど、ついでに書いておきます。 Webmasterの大学同期の経済学部に、大王製紙の創業一族の一人井川君がいました。 共通する友人がいて何度か同席する機会があったのですが、同じ部屋に数時間いて話しかけても、webmasterにだけは一度も返答しようとしませんでした。 「Webmasterのような下々の者と口をきくのもけがらわしい」という帝王学を学んでいたようです。 誕生日に当時2000万円の自家用車 Porsche 928 を買ってもらっていました。 周囲の人々に「お前のことだから無謀運転が原因で一年後に廃車になりそうだ」と言われていましたが、大方の予想を裏切って半年で廃車にしていました。 さすがの帝王学で大王製紙を相続した彼の親戚は、海外の賭博で作った数十億円のツケを会社に払わせてマスコミネタになっていました。
Yahooのトップから、こんなリンクがありました。
元民主・細野議員は「政治家以前に人として問題が」大王製紙前会長・井川氏、細野氏初当選時のエピソード激白大王製紙前会長が政治家批判をしていますが、自分の息子や甥のしつけに失敗したことを棚に上げている時点でとっても恥ずかしい記事です。
大王製紙前会長って、賭博事件の当事者なんですね。 Porsche928を半年で廃車にした井川君のいとこでしょうか? 『息子や甥』という表現は、お詫びして訂正します。
ハイ、ハイ。 また、匿名メッセージが来ました。 「俺達は何も悪いことをしていない。お前が攻撃するから攻撃を返しているだけだ。」だそうです。 正体不明の集団で先に嫌がらせを仕掛けてきて、20年以上も続いている状況に対する説明としては、非常に不正確です。 Webmasterに対する挑発であることは、明らかです。 webmasterは、この挑発に乗っても失うものがありません。 仕事の取引先はちょくちょく音信不通になりますし(11月1日に連絡が来るはずだった複数社から連絡がありません)、数年に1回その時点での友人全員が音信不通になります。 では、挑発への返答をお楽しみください。
ソニー㈱の製品を使っていて保証書の期限切れ直後に故障する経験をした人が多く、『ソニータイマー』と揶揄されています。 このタイマーが、1年どころか5分で作動した話です。
ソニー㈱に常駐した時の上司との会話を再現します。 派遣法を厳密に守った場合、NJKと契約したwebmasterはソニー㈱の正社員から直接指示を受けてはいけないのですが、法律を律儀に守っているIT会社はありません。 コンプライアンスは掛け声だけです。
結局、2016年モデル以降、USBロゴマークを付けずに出荷することで対処しました。
2016年モデルのBluetoothスピーカー試作品にまつわる数々のトラブルのうち一つで、特別有能なエンジニア市川氏がどんな対応をしたのか書いてみます。
ここで、課長補佐からストップが入りました。 「部全員が読んでいるメーリングリストで技術論を戦わせると人間関係が悪くなるから、次回から課長補佐の許可をとってからやってくれ。」 とのことでした。 この後も市川氏は、おかしな技術論を何度も展開していましたが、訂正しようと思っても課長補佐からの許可は1回も出ませんでした。 2016年モデルのBluetoothスピーカーが1990年代のワークステーション同様にバグだらけで出荷されたのには、こんな理由があります。
昨日、またラジオの留守録に失敗しました。 10月1日と同様に、留守録サーバーが異常になっていて、再起動で復帰しました。 11:00に確認した時は正常だったので、番組が終了する14:55までの間に何かが起きた模様です。 25周年を迎える全国ネットのこの番組は、土曜日放送でスタートして日曜日に移行し、webmasterの外出時間に重なることが多いので毎週留守録しています。 ミニコンポのMDに録音していた時代から、ラズパイでradiko録音に移り、自作のUSBチューナーも作りましたが、数カ月に1回の頻度で原因不明の録音失敗がおきます。 USBチューナーなんか、外出から帰宅したら物理的に壊れていました。
ささやかなお礼として暴露をします。 2015年7月にソニー㈱某プロジェクトに常駐開始した直後の話です。 担当職務について説明を受けた後、現行製品について説明を受けていた時の会話です。
その2ヶ月後
その職場をwebmasterが去った後、2016年からの広告に、『ハイレゾ級』とか『ハイレゾ相当』などという造語が並ぶようになりました。 法務部が後から仕事したようです。
ここ2、3日、実家に届く電磁波が強めです。 ガスファンヒーターの制御マイコンなど複数のマイコンが誤動作しています。 耳鳴りも止まりません。 Webmasterの母は、難聴の症状が極度に悪化しました。 感謝デーのキャンペーンとして、今日は2社分同時に暴露記事を追加します。
2015年7月に入場した現場では、BluietoothスピーカーなどオーディオのOSを、2015年発売モデルまでのリアルタイムOSからLinuxに置き換える作業をしていました。 このプロジェクト管理がグズグズだったので、書いてみます。
Webmasterが担当しない先行機種に致命的トラブルが複数発生していたのと、担当機種のハードウェア設計が遅れに遅れていたため、先行機種のデバッグを手伝うことになりました。 毎日午後一で開かれていた『対策会議』での会話です。
直属の上司からの指示です。
11月に入ってから、突然開発スケジュールの終わりを2週間伸ばす発表がありましたが、理由は聞いても教えてもらえませんでした。
12月末に、忘年会が開かれました。 ソニー㈱で働いていた25年前に、大事な決定が飲み会で行われてその場にいなかったwebmasterに知らされていなかった事件がありました。 それ以来webmasterは職場の飲み会を、『業務時間外扱いだが出席が義務付けられている職務』と解釈しています。 2015年の2次会では、課長補佐が「Linuxカーネルのエキスパートとして福島さんやwebmasterには相応の金額を払っている。」と発言しました。 『相応の金額』の半額しか受け取っていなかったwebmasterは、中間の派遣会社にクレームを入れましたが、「飲み会の発言を真に受けるな」と言われました。 ダブルスタンダードですね。
今朝も早よから針切りじいさん共がロケンロールする代わりに悪さをしているので、その執念に応えることにしましょう。
2015年に担当していたプロジェクトで、アプリチームのリーダーは『何も仕事しないで高い評価が欲しいタイプ』のありがちな大企業病でした。 2015年7月の彼との会話を書きます。
2015年11月にした、アプリチームのリーダーとのもうひとつの会話です。
1月4日の状況報告で予告した暴露です。 ちょうど今日は、ソニー㈱がAIBOを再発売したという話題が報道されているので、そのAIBOについて書きます。
先日見たNHKの番組では、ゲストのふたり組タレントが「アイボ」を連呼していて、「NHKだから商品名は出さないでください。」とたしなめられていました。 もしかして、ソニー㈱から商品名を連呼するように頼まれたのでしょうか? 脳科学者茂木氏が初めてNHKスペシャルに出た時にも、ソニー㈱の登録商標「クオリア」を連呼していたのを思い出しました。 そういえばコンパクトデジカメのボディーを意味もなくアルミ削り出しにして35万円とっていたボッタクリ商法は、2018年の今ウォークマンでやっているようですね。
1999年に初代ペットロボットを出荷した時、OSはAPERTOS(旧称MUSE OS)でした。 APERTOSを開発した横手氏は、所研究室の数年先輩です。 学生時代ですが、所研究室のメンバーが共同でSun3というunixワークステーションを利用していました。 同時に数人が1台のマシンで自分の評価プログラムを走らせていたのですが、横手氏は「自分のプログラムの実行速度が遅い」と激怒してワークステーションをシャットダウンし、シングルユーザーモードで起動して自分のプログラムだけ再起動していました。 他のメンバーには、マシントラブルだと説明していたようです。
横手氏の結婚式2次会にはwebmasterも参加しました。 でもすぐ離婚してしまい、別の人と再婚していました。 再婚後どうなったかは聞いていません。
2008年頃だったと思います。 仕事の都合で赤坂のSony Computer Entertainment社のビルに入ったことがあります。 3階でエレベーターから出てきた横手氏とすれ違ったのですが、ガン無視されました。 ソニー㈱系列会社では、いろんな人相手によく体験する状況です。
2018年のAIBO空間認識プログラムにはSLAMが入っているそうです。 2012年ころだったと思いますが、当時常駐していた会社クウジット㈱でSLAMの開発を手伝ったことがあります。
当時、ARが流行っていて、「これからはマーカーレスARだ」とか「3次元認識ARだ」とか掛け声だけは勇ましかったのを覚えています。 3次元認識ARは、確か英国の大学で学生が画期的な性能のものを開発した後、公開されるはずだったソースコードが非公開ポリシーになって全世界が落胆していました。 その後、クローンプログラムがあちこちで作られ、SLAMもその一つです。 認識した特徴点を色付きの丸で表示する外見は、英国のデモそっくりでした。
研究所が試作したSLAMを商品化したいのに予算がつかないので、webmasterが常駐するクウジット㈱でデモンストレーション作成を手伝うことになりました。 なんでも銀座のソニービルでお偉いさんを招いてARのデモをするとかいう話でした。
開発を始めて最初に問題になったのが、計算誤差です。 当時のソニー㈱が作るARプログラムは3次元計算がほぼ同じロジックでできていて、平面を正面からカメラでとらえた時、ベクトル計算の途中で0ベクトルに近い中間結果が出るため誤差が大きくなり、AR画像がブルブル震えていました。
研究所から受け取ったサンプルプログラムの震えが使えないレベルだったので、webmasterは、ローパスフィルターを組み込んで震えを抑えました。 定期的に進捗確認に来ていた研究所課長は、webmasterの計算ロジックを根掘り葉掘り聞いて帰りました。 研究所による翌週のバージョンアップで「大改良しました」というソースコードを読んでみたら、課長に教えた通りのロジックが追加されていました。
課長ではなく現役エンジニアもよく訪問していました。 リーダー格の人物は、来る度に何か自慢しないと収まらないようでした。 ある日、WindowsノートパソコンにUSBメモリを挿してKnoppixをブートして自慢していました。 もしかしたら、webmasterが2004年に書いた USBメモリブートのKNOPPIX を読んでいたのかもしれません。
デモンストレーションでは、空間認識のため自然画ポスターから抽出した特徴点も使用していました。 18時からソニービルに集まってリハーサルする予定の日15時に、荷物を梱包しようとしていたら、突然自然画ビットマップ100枚を送りつけてきて「ポスターを差し替えるから18時までに全部特徴点を計算して持ってきて」と言われたこともあります。 相手の都合を全く考えずに自己中に振る舞うところが、ソニー㈱らしいですね。
デモンストレーション本番は、成功したようです。 ネットメディアがリーダー格の人物を含めてインタビューしていましたが、全部が自分たち正社員の成果であるような口ぶりで自慢していました。 意識高い系の図々しさにはびっくりです。 この話を読んだ後でAIBO再発売で顔出ししているソニー㈱エンジニア写真を見ると、別の印象を持てると思います。
最近、スマートスピーカーが流行っています。 同時に、セキュリティリスクも指摘されています。 スマートスピーカーがオーナーの指示を聞き漏らさないために常にマイクが有効になっていて、マイクから拾った音声をメーカーに報告したり、侵入者が聞き耳をたてたりするのではないかという話です。
この話題について、webmasterには『今更感』が半端ありません。 Webmasterは1989年に、NEWSワークステーションへ音声録再デバイスを追加するプロジェクトで働いていました。 当時の非力なunixマシンでは、コンソールビットマップのユーザーが入れ替わるのを調べてI/Oデバイスのオーナーを切り替えるような器用な真似はできませんでした。 そこで誰がコンソールを使っていてもアクセスできるように、音声デバイスは全ユーザーがopen()できるアクセス権に設定されていました。 Webmasterはこの仕様を聞いてすぐに「リモートから仮想端末でログインしているユーザーが、こっそりマイクをopen()してコンソール前の会話を盗み聞きする危険がある」「コンソールの前ではrootのパスワードを読みあげないなどのユーザー向け注意喚起が必要だ」と訴えました。 子会社のソニーCSL研究所の研究者一人だけが「その通りだ」と言ってくれただけで、後は無反応でした。 LF-S50Gにも同様のセキュリティーホールが開きっぱなしになっていると予想します。
スマートスピーカーが盗聴している問題の対策は、1989年にwebmasterが提案した方式がそのまま使えます。 マイクを強制的にOffできるハードウェアスイッチを追加して、人間がマイクを殺せるようにすればよいのです。 「無効化したマイクを有効化するために、スマートスピーカーまで歩いて行かないといけないのか?」と言っている人は、詰めが甘いですね。 マイク無効化スイッチをつけたワイヤレスマイクを持ち歩けばよいでしょう。
ネットで興味深い記事を見かけました。
ソニー社員自殺、高裁も労災認めず 「退職強要」も一転否定、父「息子は侮辱された」ソニー㈱でもパワハラが蔓延していたのですね。
Webmasterに届いた匿名メッセージによれば、webmasterがここに暴露している内容が『ソニー㈱で成果を出している人達にとって唯一の希望』だそうです。 暴露を続けます。
Webmasterが2015年から2016年にかけてソニー㈱の大崎ビルに常駐していた時、1度だけ避難訓練がありました。 この様子がぐだぐだだったので紹介します。 避難訓練の設定は、『大地震が起きて、17階で火災発生』というものでした。 Webmasterは17階に常駐していたのですが、非常時の役割を持っている正社員よりも、役割のない外注のほうが多い場所でした。 全館アナウンスで地震と火災発生という通知がきました。 「17階で火災発生のため、係の人は火を消してください」というアナウンスの後、16階18階から避難開始の指示が出ました。 30分待っても17階の避難指示が出ません。 連絡係が3階にある災害対策本部へ行ったところ、「17階の避難指示はとっくに出しました」と言われたそうですが、連絡係が17階まで階段で戻ってくるのにさらに10分位かかりました。 エレベーターは使用禁止の想定です。 本当の地震と火災が起きた場合、韓国の客船事故のように我先に逃げないと死んでしまうと実感した訓練でした。
1989年にソニー㈱でオーディオ関係のソフトウェアを組んでいた時の話です。 当時、マルチメディア市場を立ち上げようとして、いろいろな団体がいろいろな企画を乱立させていました。 その中に、CD-ROMの中へ音声、静止画、ソフトウェアを入れて、教育やプレゼンテーションに使おうという規格 CD-I がありました。 音声にCDDAを使うと数十分の音声だけで容量を使い果たしてしまうので、ADPCMという当時の最新圧縮音声を提案していました。 Webmasterは、NEWSワークステーション向けにADPCMのCODECを組んでいました。 同じ事業本部には、DSPを使って同じADPCMのCODECを組んでいるグループもあって、webmasterは何かと目の敵にされていました。 DSPグループは10年間の開発の成果がようやく出て、ADPCMのCODECが録再と同時にリアルタイムで動き出すようになったところでしたが、webmasterが組んだCのライブラリを当時のRISCプロセッサで動かすと、おなじくリアルタイム動作しました。 DSPグループはそれが気に入らなかったので、何かといちゃもんをつけてきました。
エンコーダーは、16bit PCMを短いIIRフィルタ3種にかけて上位4bitだけを抽出し、もっともデコード品質の高いストリームもしくは生データの上位4bitの4者択一で伝送する仕組みになっていました。 定期的に挟まれるヘッダを除けば、16bitが4bitになってデータ量は1/4です。 音質もMP3よりずっと劣ります。 デコーダーでは逆特性のIIRフィルタにかけるのですが、ここで元データの16bitをオーバーフローする可能性があるので、webmasterはオーバーフロー対策のリミッターロジックを組み込んでいました。 DSPチームはこのフィルターが不要だと言って、いちゃもんをつけてきました。
Webmasterが手元のエンコーダーで処理した境界条件の中には、デコーダーのオーバーフローが必ず起きるデータがあったので、いちゃもん1への反論はすぐに終わりました。 するとDSPチームは、「必ずオーバーフローするようなデータを作ったエンコーダーにバグがある」と言い出しました。 「DSPチームがエンコードしたデータの中に、オーバーフローを起こすデータは一つもない」からだそうです。 「エンコーダーのIIRフィルタは、3種類とも単なるバンドパスフィルタでゲインが1を超えていないからオーバーフローするはずない」とも言っていました。 4bitに圧縮した時点でS/Nが18dBに落ちているから、ゲインが1を超えなくても振幅ピークが最大値を飛び出す可能性があると言っても聞き入れません。 研究所からも入れ替わり研究者がやって来て、DSPチームと同じ主張を繰り返していきました。 結局、半年後にDSPチームが自分の非を認めました。 「オーディオ入力はD/A変換の前にピークを-20dBにしなければならない」という自分たちで決めたローカルルールのせいで、境界条件試験を実行していなかったそうです。 過大入力を入れたところ、DSPチームでも必ずオーバーフローするデータが出力されたとのことでした。 しかも自分たちの間違いを認めるのに、webmasterやその上司に連絡せずネガティブ思考の田中統括課長だけにこっそり連絡していたので、その後も1週間ほどwebmasterは自分のソースコードに存在しないバグを探しまわっていました。
DSPチームが作成したADPCMのCODEC基板は別売りで数十万円しました。 Webmasterの作成するライブラリは、NEWSワークステーションに添付されます。 「これでは別売のCODEC基板が売れないから、添付ライブラリの機能を落とせ」と要求してきました。 仕方がないので、社内の報告書を参考に社外秘のロジックも実装したライブラリから社外秘の部分だけ削りました。 するとDSPチームは、「社内の報告書では実装の面倒な3番めのIIRフィルタは社外秘ロジックと同時に実装されているから、3番目のフィルタも社外秘ロジックと同時に外せ」と言ってきました。 言い返しても無駄なので、指摘のIIRをエンコーダーから削りました。 DSPチームは「デコーダーからも3番めのフィルタを削れ」と言ってきましたが、「DSP基板が出力したADPCMをデコードできなくなっても良いのですか?」と質問したらだまりました。
ADPCMを作る時、ADPCMとサンプリング周波数の異なるデータを変換するためのFIRフィルタ係数は、DSPチームからもらっていました。 もらうときに「アーキテクチャの違いでエンディアンとかワード順が逆転していたりしませんか?」と聞いたところ、「絶対に問題ない」と言われたのでそのまま使っていました。 Webmasterの手元にないオシロスコープでDSPチームが確認したところ、「webmasterの実装した周波数変換ライブラリの出力波形がギザギザだ」と指摘を受けました。 Webmasterがアーキテクチャを確認したところ、やはりDSPとRISCプロセッサでワード順が逆転していました。 しかもDSPチームが測定する時、オシロスコープのプローブを強引に捻じ曲げてこっそり返していて、オシロスコープの管理者から「だれがこんなひどいことをしたのですか」と事業部全体にメールが飛んでいましたが、DSPチームは知らんぷりでした。
DSPチームは電話魔でした。 要件があると、Eメールではなくて内線電話をかけてきます。 当時新人だったwebmasterは課の電話番も任されていて、5分に1回かかってくる内線電話を受けるたびに思考が中断していました。 ソフトウェアの設計を経験した人ならば解ると思いますが、ソフトウェアの設計時には30分位連続して深く考える時間が必要です。 電話のたびに思考が邪魔される上、用事がすんだ後には前回の続きではなく最初から始めないと考えが進みません。 無駄な5分を何百回も重ねました。 そこで、webmasterはなるべく連絡をEメールでとっていたのですが、DSPチームから「メールの返答を書くのにいちいちかな漢字変換を起動しなくちゃならない。面倒だからメールはやめろ」と苦情が来ました。
1989年のことです。 当時はバブル真っ盛りで、「どうやって楽して儲けるか」ということに皆必死になっていました。 ソニー㈱の本社社員食堂は先進的なシステムを採用していて、クレジットカードのような社員証をレジに通すと、1ヶ月分の食事代を給料から天引きされていました。
これを改悪したのが当時の事務方です。 どこかのプリペイドカード会社と組んで、社員食堂の支払いを全てプリペイドカード扱いにしてしまいました。 プリペイドカードシステムで先払いにさせて、金利をセコく稼ごうと言う魂胆が見え見えでした。 プリペイドカードのリーダー・ライターの性能が悪く、レジで渋滞が発生するようになりました。 1ヶ月後くらいにまだ存命だった盛田会長がプリペイドカードを使う機会があって、その場で廃止を決定しました。
2015年の大崎ビルでのことです。 8月に、食堂運営を委託されている会社が入れ替わりました。 事務方の説明では、「事前の食事サンプルで評判が良かった会社を採用した」と言っていましたが、メニュー数こそ増えたものの行列ができ、まずくなり、高くなりました。 この食堂では、食器の底に非接触ICを貼り付けてあって、食器を下げる時に簡単に金額計算できるのが売りです。 ところが、金額を間違えます。 クレームをつけたところ、「毎日メンテナンスしている金額データベースの入力ミスだ」と言っていました。 金額の間違いは、気づいただけでも1ヶ月に1回のペースでした。
1989年に、ソニー㈱に入社した直後の話です。 学生時代のwebmasterは、Softbank出版部の雑誌に原稿を書いていました。 Oh! HitBitにもSMC-777のゲーム3種とユーティリティーなどを載せています。 当時ゲームを雑誌に載せるには、アセンブラで記述したバイナリを16進ダンプして、読者が16進数の羅列をツールで入力していました。 10KBのゲームを掲載すると、読者は20480桁の16進数を打ち込む苦行を経てゲームで遊ぶことができました。
入社直後、webmasterの原稿を読んでいた人からメールが届きました。 「Oh!HitBitに掲載されたプログラムは、有志が入力してから厚木社内のサーバーに置いてみんなで楽しんでいます。」とありました。 これは、明らかに著作権侵害です。 Webmasterの記事は事後承諾で構わないけれど、その他の筆者の分は権利者に連絡して謝罪すべきだと伝えました。 「サーバーから削除しました。」というメールで連絡が途絶えたところを見ると、権利者への連絡はしなかった模様です。
Webmasterが、雑誌に掲載したゲームの商品化を訴えても、ソニー㈱の人がとり合ってくれなかった理由がわかりました。 自分たちがタダで使えるから、欲しがる人の気持ちがわからなかったのですね。
ネットで興味深い記事を見かけました。
ソニー子会社、不適切な高額接待 社長辞任、流用も調査どうせ、反社会勢力に金を渡してライバルに嫌がらせをしていたのでしょう。 領収書は接待名目でも、発行したのは反社会勢力といったところでしょうか。
最近親会社の社長が交代したのは、この問題をマスコミにすっぱ抜かれる前に、責任者を交代させなければならなかったからでしょうか。
ネットで興味深い記事を見かけました。
元ソニー女子"私は限界を感じたことない"自信が溢れすぎるお言葉です。 いかにも意識高い系会社出身ですね。 「♪目医者じゃないのよ歯医者は、ハッハー」と歌っていることでしょう。
もうひとつ興味深い記事を見かけました。
ソニーには「ソニーらしい製品」が必要だWebmasterには、納得のいく内容でした。 プレステ以降のソニーはマスコミや自分自身が言うほどソニーらしい製品を作っていないという話と、『ソニーらしさ』という言葉のイメージが消費者と社内で乖離しているという指摘です。
社内でのソニーらしさと言ったら、威張り腐ったデザイナーにつきます。 スケジュールを無視して金曜日の夕方にやってきて試作品デザインにダメ出しして「月曜日の朝までに直しといて」とエンジニアに指示したり、会議中に「ボクチン退屈だから帰る」と発言して出て行ってしまったり、みなさんいろいろとやらかしてくれました。
意識高い系って本当に使えない人ばかりです。
後は、ライバル会社と同等でより高い製品を、金の力にモノを言わせたマーケティングでシェアトップにねじ込むこともソニーらしさでしょうか。
Webmasterは、Walkmanのヒットがソニーを迷わせたと考えています。
エンジニアリング発の製品企画は、『ニーズ』と『シーズ』で考えるように言われています。 消費者が欲しがっているものを作るか、新技術を応用して世の中に新しい製品企画を見せることです。 Walkmanは、そのどちらでもありません。 既存の技術を使いながら、見せ方を変えて新しい商品グループを作ったのです。 今風に表現するならば、「機能を削ってサイズとデザインに訴求性を持たせ、新しい製品セグメントを創りだした」といったところでしょうか。 小型に作って低消費電力にするためには、新しい部品の開発などが必要だったのでしょうが、既存品の改良であって発明ではありません。
Walkmanの成功は、『企画の勝利』であり『マーケティングの勝利』だと思いますが、『技術の勝利』でも『消費者へのサービス』でもありません。 泥臭い技術の世界でコツコツ努力を積み重ねなくても、ちょっとしたアイディアがあれば儲かることを示したという点で、エポックメイキングではありました。 ところが、ソニーもライバル会社も「Walkmanに続け!」とばかり、泥臭い努力を捨てて企画中心で楽に金儲けを追いかける方針に転換してしまいました。 2018年ならば「IoTやAIをやっていれば仕事がやってくる」と言われていますし、少し前ならばインターネットのブラウザゲーム、その前ならば金融工学でしょうか。 流行を作ってみんなで神輿を担ぐのも否定しませんけど、本当の発明、本当のイノベーションはみんながスルーしている分野からやって来ます。 Webmasterがそう言い続けて30年以上立ちましたが、最近ではレッドオーシャン、ブルーオーシャンとか言ってようやく同意してくれる人も出てきました。
流行は、流行を作ったものだけが儲かる商売で、流行に後から乗っかったものに利益は出せません。 そんな当たり前のことを学習するのに、この国の政治家、官僚、経営者はあと何十年かけるつもりなのでしょうか。
最近ネットで読んだ記事にありました。 「ソニーは、Walkman以前のヒット商品を連発していた日本のベンチャー企業ではなくなった。 もはや国際的な大企業で身軽な動きがとれないから、昔のソニーのような製品は出てこない。」という意見です。 Webmasterは全面的に同意します。 今のソニーは、ものづくりのコアを外注に依存していて、社内に技術の蓄積がありません。 人事は人件費削減だけを目的として、40代以上の社員を一人づつ呼び出して、「君だけは成果を出していないから給料半減か退職かどちらかを選べ」と全員に言っているそうです。 特許でソニーに大貢献した元社員から聞きました。
実際に外注として社内に常駐すると、技術の蓄積も仕事を回すノウハウも持たない若手が会社ごっこをしているだけです。 本人は、『発想の柔軟な若手』『技術力の高いソニーのエンジニア』でいるつもりのようです。 いまや、CXナンバーのついた半導体でさえ、MediaTek製品のOEMが混ざっています。 ソニー㈱がまだ技術力を持っていると信じているのは、ファン消費者と勘違い社員だけです。
イノベーションの役割は社外のベンチャーに任せて、投資側にまわったほうが大企業としてのメリットを活かせると思うのですが、もちろんプライドだけ高いソニー社員と成れの果ての役員が認めるわけはありません。
「バカは死ななきゃ治らない」そうなので、「ソニーも一旦倒産しないと自覚できない」のでしょう。
2015年に、大崎の17階でBluetoothスピーカーの設計をしていた時の話です。 アプリチームのリーダーが、アプリの制作スケジュールの遅れを全て上流工程のシステムチームのせいにしていました。 「デグレ」という言葉をバカの一つ覚えのように使っていましたが、webmasterに言わせればこの開発は企画段階からプロジェクト崩れでした。 CPU提供元のMediaTek社がLinuxをカスタマイズするのも、社内のプラットフォームチームがそのLinuxを受け取って移植するのも、システムチームが最終製品向けデバイスドライバを開発するのも、サウンドチームが音質チューニングするのも、アプリの開発と同時進行です。 上流工程が完了するのを待たずに下流工程がスタートするから、プロジェクト崩れ以外のなにものでもありません。 それを判っていてわざと「デグレ」という言葉を使って非難を乱発していました。
しかもアプリチームは上流のシステムチームを責めたてるのに、システムチームが上流のプラットフォームチームに同様の文句を言おうとすると、「プラットフォームチームは組織が違うからクレームをつけてはいけない」などと謎のルールを持ち出します。 NTTデータとかCSKとか有名ドコロのSIerに説明したら、鼻先で笑われそうな状況でした。
CQ出版社のエレキ工房No.5の出版が遅れた原因の一つは、第4章の原稿が届かなかったことにあります。
第4章を書いた西尾氏は当時ソニー㈱にいて、会社の手続きに乗っ取り公報へ原稿チェックを依頼しました。 その後、西尾氏はIIJに移籍したのですが、いつまで待ってもソニー㈱の公報から第4章の原稿が届きません。 CQ出版社の編集者が公報に問い合わせても、「そんな原稿は受け取っていません」と繰り返すばかりです。
たまたまwebmasterが第11回1bit研究会で登壇していた西尾氏に会えたので、西尾氏の側とCQ出版社双方からもう一度公報にPUSHしてもらいました。 そうして出てきたのが、第4章の原稿です。
2006年の話です。 ソニー㈱は、最新CPU ATOMと最新OS Windows Vistaの組み合わせで、小型パソコンVAIO type pを発売しようとしていました。
Webmasterが常駐していたベンチャー会社クウジット㈱社長は、VAIO課長だったことがあるので、新機種企画にPlaceEngineをネジこんでバンドリングさせることになりました。 Webmasterはそのプロジェクトのプロマネです。
今考えると、Windows史上最も遅いVistaと、Intel CPUとして遅めのATOMの組み合わせは最悪なのですが、発売まで誰も気づきませんでした。 発売直後から、VAIO type pは「遅くて使い物にならない」と評判になりました。 Webmasterも1台自腹で購入しましたが、電源を入れてからログオン可能になるまで2分以上待たされます。 ソニー㈱のエンジニアは、「PlaceEngineが高負荷をかけて遅くしている」と調べもせずにいちゃもんをつけてきました。
「ネットで『DVDドライブをUSBにつないでも、DVD再生画面がカクカクする』と書かれているのはお前らのせいだ」と金曜日の夕方に言われて残業しましたが、原因は出荷時のWindowsのパワーマネージメント設定でした。 DVD再生を始めてキーボードやマウスに触らなくなると、数十秒でUSB LSIの電源を切る設定になっていました。 おかげてDVD再生アプリが起動中なのに、USBが切れたり再接続したりして、再生が断続的になっていました。 Webmasterがそれを指摘しても、彼らは自分たちの非を認めようともしません。 品川のソニー㈱本社ビルまで出張して、担当者の前で実際にWindowsの設定画面を操作した記憶があります。
他にも、メーカー設定の間違いで発生したトラブル原因の切り分けは、数十件全部webmasterに丸投げされたのを記憶しています。 多分、VAIO担当者の中では「外注アプリが遅いせいでマシンが遅くなっているが、自分たちの商品企画には問題がない」というシナリオを脳内に妄想して、その通りに行動していたのでしょう。
クウジット㈱社長は「出荷後のトラブル原因切り分けで工数を取られて、大赤字のプロジェクトだ」と怒っていましたが、webmasterは自分に落ち度があったとは思えません。
コメントが届きました。 大企業の社員集団は、被害者意識をもつことで安心できるそうです。 下請けにとっては、大きな迷惑ですね。
1989年頃の話です。 当時品川のKビルに『情報システム営業本部特機技術推進部ニューメディア推進二課』という部署がありました。 この課で職場結婚がありました。 新郎新婦ともに仕事を続ける気まんまんだったのですが、邪魔をしたのが人事です。
新郎新婦のどちらかが異動になることは想定内でしたが、人事は新郎を大阪勤務に、新婦を元の部署にしました。 結局新婦は退職して大阪に転居しました。
課は優秀な人材を同時に二人失って、てんてこまいです。 三方一両損ではありませんが、人事は関係者全員に迷惑をかけることに成功しました。 しかも、会社にとって損害はあっても得はありません。 さすが、大企業の人事は発想からして違います。
2018年9月2日に届くと告知されていた知人からの連絡が来なかったので、お礼に暴露をします。
2015年のことです。 ソニー㈱に常駐していたWebmasterの隣には、おなじく派遣の福島氏が座っていました。 福島氏も初対面から喧嘩腰で、「おはよう」「さよなら」の挨拶ができないサイコパスです。
福島氏は、自称デバイスドライバ開発のエキスパートでしたが、品質上も作業速度も問題があったので、webmasterが手伝っていました。 福島氏担当の機種が1ヶ月以上のスケジュール遅れを出していたので、webmasterが昼休み返上でデバッグしていたところ、福島氏からクレームが入りました。 「昼休みにキーボードを叩かれると、振動で眠れないし、音もうるさい」だそうです。 たしかに常駐先が用意した環境は、DELLの廉価パソコンと付属キーボードだったので、webmasterの打鍵速度についてこれないくらいでした。 でも、福島氏に代わって昼休みに作業していたのだから、感謝されることはあっても文句を言われる筋合いではないと思います。 Webmasterに手伝う義務があったわけでもありませんし、福島氏が報酬に見合う作業をできなかったのもwebmasterのせいではありません。
福島氏は、他にもいろいろやらかしてくれました。 wake_up_interruptible()を使うべきところでksleep()を多用していたので、性能問題を引き起こしました。
福島氏は、Webmasterの担当機種で採用する予定のLSIについて、デバイスドライバを先行作成してくれていたという触れ込みでした。 福島氏が作成したデバイスドライバを使うと、ドライバ内部で必ずNULLポインタアクセスをしてシステムを止めてしまうようなクォリティーでした。
福島氏は、自分の担当機種の開発が一番忙しくなるタイミングで、常駐解除してしまいました。 常駐作業ってこの程度の無責任さで良かったのですね。 大いに参考になりました。
IT業界の開発現場なんて、こんなものです。 最近この現場からsignatureシリーズとかいう高級機種が発売されたとネットに書かれていますが、その品質は「推して知るべし」です。
2016年の話です。部でも特別有能と評判のハードウェアエンジニア市川氏の後日談です。
Bluetoothスピーカーの2016年モデル第一弾を、マレーシア工場で量産試作していた時の話です。 ハードウェアに大きな問題が発生して、部で原因の特定を進めていました。 Webmasterは回路図を見て、入出力を本来の方向と逆転して使っているモジュールを見つけました。 データシート上の等価回路ではTrが2個だけ入っている表面実装モジュールです。 等価回路が組み込まれたとみなせば、問題はありません。 しかし、部品の耐電圧、応答速度などが、逆方向に使った場合に問題ないかは不明です。 等価回路に現れない寄生容量や逆電圧防止のダイオードがあって、悪さしているかもしれません。 Webmasterはメーリングリストで質問しました。
ここまで言われて他人の仕事を手伝う義理も無いとwebmasterは考え、その後の手伝いをやめました。 出荷時にバグリストが数百件も溜まっているような製品は、それなりの開発過程を経ているのです。
Yahooのトップに、以下のリンクを見つけました。
<プレイステーション>復刻版「プレイステーション クラシック」発売 12月3日に9980円でモロに任天堂の後追い企画です。 イノベーションとか発明に背を向けて、モノマネ企画でお茶を濁す会社になってしまったのですね。 ここまで言われて悔しかったら、内蔵ROMではなくPSのCD-ROMでプレイできる復刻版でも作ってみたらどうでしょうか。
1990年のことです。 当時のソニー㈱の取締役には、定年延長される上級取締役と、延長なしの下級取締役がありました。 とある下級取締役(情報システム営業本部システム技術部統括部長)が「定年が近いので上級取締役になりたい」と言って、自分の部下に強引なセールスをさせていました。
社外の人間に、ソニー㈱の名刺を持たせて営業させていました。 ITベンチャーでは当たり前の行為ですが、東証一部上場企業が行うのは非常に珍しいです。
一例として挙げますが、レーザーディスクプレーヤーとパソコンを組み合わせて水族館に納品し、100円を投入すると水族館の資料映像が流れるシステムを作らされたこともあります。 普通は、100円の投入を検知するのに『コインキャッチャー』という専用の機械を使うところです。 このシステムはお金をケチって小学生の自由工作みたいな仕組みを使っていました。 偽造コインの判別などできません。
売上金額の増加を目標とした強引なセールスは会社上層部の知るところとなり、この部署に監査が入って終わりました。 くだんの取締役は、「会社のイメージをダウンさせた」として大目玉を食ったようです。
2005年頃のことです。 品川区が小学生に配布している防犯ブザーを特注して、PHS経由で発報をセンター管理しようというプロジェクトがありました。 このプロジェクトのプロマネをやっていたのが、当時木原研にいた田中氏です。 Webmasterの勤める会社エヌティマイクロシステムズ㈱に、高めの金額を提示してJavaを使ったシステムの設計、実装を依頼してきました。 当時、会社内で暇だった森課長と、会社内で唯一Javaの実装経験があるwebmasterがチームを組んで打ち合わせに出かけました。 打ち合わせは、毎回木原研勤務の終わった平日19時過ぎです。
田中氏も、机上の空論が大好きでした。 システムの要求仕様として、以下を並べました。
ここまでは良かったのですが、次の項目で破綻しました。
「防犯ブザーの通報で起動したJava BeansはHTTPの応答を返した3秒以内に終了しているので、数十秒間リトライをかけるには別プロセスがどうしても必要だ」と主張したのですが田中氏は聞き入れません。
Webmasterは実証プログラムまで書いて説明したのですが、田中氏は自分の要求仕様に酔っていて全く聞き入れず、webmasterをプロジェクトから外しました。
今考えると、実績も殆ど無い場末のソフトハウスに半年間3000万円の高額プロジェクトの打診が来た時点で疑うべきでした。 品川区のプロジェクトがスタートしてから数ヶ月経っているのに、設計がほとんど進んでいないのもよくあるパターンです。 おそらく、Webmasterの会社まで話が来る前にも複数のまともなソフトハウスに打診して、プロマネの馬鹿さ加減に多くが匙を放り投げた状態だったと予想します。
結局、webmasterを外したプロジェクトは田中氏と森氏が暴走しました。 要求仕様とは全く似ても似つかないPythonを使ったスクラッチシステムでようやく動いたそうです。 森氏は、プロジェクトに割り当てられた部下を次々とパワハラ退職させてしまい、全部自分で作っていました。 設計資料も全く存在しないので次バージョンを作ろうと思ったら、ゼロからのスタートになります。
2015年のことです。 当時、某機種のLED駆動用デバイスドライバを作成したwebmasterに、アプリケーションのプログラマーがクレームをつけてきました。
for (i = 0; i < 256; i++) { 輝度設定(i); } |
for (i = 0; i < 256; i++) { 輝度設定((int)(255 * exp(i / 255.0) / exp(1.0))); } |
このエンジニアとは、同じ会話を3回しました。
2015年のことです。 先行開発中の機種で、CPUがUSBのVbus電圧を検出しないという問題がありました。 データシートによれば、Vbus電圧を検出するため、USB電源の5Vを1kΩと200Ωで分圧し、5/6Vをピンに入れるように書いてありました。 その通り実装しても検出しません。 現場で、「以前使っていた分圧の定数が誤っていたそうで、修正した時からなぜか検出しなくなった」と聞きました。
気づいたのですが、200Ωを十倍の2kΩにすれば分圧値が5x2/3Vの3.33...Vになって辻褄が合いそうです。 Webmasterの頭の中で、『こうだったんじゃないか劇場』がスタートしました。
以上をプラットフォームチームに説明して、毎週1回行われるMediaTekとの打ち合わせの議題に出すよう依頼しました。 しかし、市川氏が割り込んで「MediaTek社のデータシートに書いてある以上、この抵抗値が正しいのです。質問する必要はありません。」と却下しました。
1ヶ月後、市川氏はそのデータシートに別の問題を発見して「M社クオリティはろくなもんじゃない」と言っていました。 この発言には二つの問題点があります。
有能な人は、自信だけは他人の100倍持っていますが、根拠はありません。
2015年のことです。 Webmasterが常駐していた現場に新しい命令がおりてきました。 「我社の液晶TVもBluetoothスピーカーもWi-Fiインタフェースを持つのだから、無線伝送でBluetoothスピーカーをサラウンドスピーカーにできるじゃん。」
AV雑誌を読み漁った素人のようなポッとでの思いつきです。 企画を聞いた瞬間、webmasterは次のような問題点を思いつきました。
どれも解決にマンパワーが使われる割に、成果の地味な開発です。 この現場では、2番目だけ独自実装で解決しましたが、残りはその場しのぎの対応策でごまかしました。
2016年のことです。 Webmasterのいるプロジェクトでは、ターゲットマシンのソフトウェア開発が3つのグループに別れていました。 Webmasterも含まれるカーネル関係と、サウンド関係のソフトウェア関係と、操作中心のアプリ関係です。 Webmasterがアプリのバグを見つけて修整をgitにコミットすると「越権行為だ」と怒られるのですが、プラットフォームチームからリリースされるカーネルソースコードは、アプリチームが勝手にgitへマージしてしまいます。
その日も、アプリチームがカーネルのマージを行った後で、「FMチューナーが動かなくなった」とwebmasterまでクレームが来ました。 調べてみると、FMチューナー関係のデバイスドライバが大幅に書き換えられています。 「古いソースコードに戻せば多分動く」と言っても、アプリチームは納得しません。
プラットフォームチームの座席まで行くと、FMチューナー担当者は前日の深夜にソースコードをコミットして、当日は有給休暇をとっていました。 仕方がないので、webmasterがFMチューナーのデバイスドライバをデバッグしようと試みました。
FMチューナーのLSIを売っているRICOH社のWEBサイトを見ると、データシートにはアクセスできません。 それどころか、FMチューナーのLSIを売っていることすら秘密のようです。 結局、プラットフォームチームの担当者が有給休暇明けで出社するまでアプリチームを待たせることにしましたが、開発が遅れると文句を言われました。 誰のせいでしょうか?
Yahooのトップにこんなリンクを見つけました。
イントレプレナーは「相手を知ること」から始めよ引用します。
「──対話を増やすにはどうしたらいいのでしょう?
想定外のことが起きても自分の文脈で理解すると対話になりませんので、自分の解釈の枠を超えることが必要になります。
ハイフェッツの「最難関のリーダーシップ」に2つ象徴的なフレーズが出てきます。ひとつは、「観察・解釈・介入のサイクルを回せ」。よく見て、よく考えて、よく実践せよ。はずしたらもっと見よと。
もうひとつは「バルコニーに立て」。自分を含め皆ダンスフロアにいる。何かをやろうとしたときに俯瞰して見てみよということなのですが、踊っていることで誰かを殴っていないか? 邪魔になっていないか? と問うこと。つまり、誰がどんな顔をしているかなど見て、組織のなかで物事を進めていくべきではないか? という例えです。」
イントレプレナーになるつもりのない有能な正社員にも通用する内容だと思います。
2015年〜2016年の話です。 ソニー㈱では、デジタル家電のCPUをMediaTek製品のOEMで統一し、社内のOS開発の中核としてプラットフォームチームを組織していました。 ところが、プラットフォームチームはWALKMANチームから別れてできたので、WALKMAN開発チームばかり優遇します。
WALKMAN以外のデバイスドライバは、各ターゲット担当部署が書くことになっていましたが、WALKMANのデバイスドライバはプラットフォームチームが書きます。 そのせいで、WALKMAN試作基板に新しいデバイスが追加されるたびに、WALKMAN以外のターゲットが利用するカーネルソースコードにまで不要なデバイスドライバが追加され、いちいち削らなくてはなりません。
カーネルコンフィグレーションに関わらずインストールされるデバイスドライバがいつの間にかできていて、その中でCPUのGPIO設定をいじられた挙句、ターゲットマシンのデバイスドライバのI/O制御に悪影響を及ぼすことなど、毎週起きていました。
プラットフォームのカーネルに質問やトラブル対応を依頼するときは、BugTrackingSystemのJIRA経由で依頼を出すことになっていました。 ところが、毎日10件以上の依頼が発生するのに、依頼への返答は1ヶ月も待たされます。 しかもJIRAは、自分のチケットと他人のチケットの区別をしてくれないので、返答が書かれて通知メールが来ても、毎日数百通届くJIRAメールの中に埋もれて気づきません。
上司には「JIRAを経由するというルールを守っていたら間に合わないから、直接プラットフォームのエンジニアと会話しろ」と言われていました。 そのとおりにすると、毎回プラットフォームチームのエンジニアに、「JIRA経由で問い合わせろ」と文句を言われます。
しかも、プラットフォームチームの中で、本当にカーネルをいじれるエンジニアは1割くらいしかいません。 その他有象無象の中には、Linuxのデバイスドライバ内で浮動小数点演算をしてくれた猛者もいました。
2016年の話です。 3ヶ月単位の常駐契約について、3度目の延長打診がありました。 延長に際して、現場の菊池課長と交渉をしたときのやりとりです。
菊池課長はブツブツ言っていましたが、言い逃れはできません。 契約は延長しないことになりましたが、PE-BANKとNJKがSONYと組んで引き継ぎをサボタージュしたので、無理やり2週間の延長となりました。
そのうちカルト宗教を扱う国際学会で、「SONYにはびこる新興宗教」みたいな発表でパワハラ動画が使われるものと期待しています。
ソニー㈱の菊池課長に常駐解除の申し出をした途端、SPAMが増えました。 1bit研究会での補助資料を、ここでも配布します。
spam1.pdf spam2.pdfネットにこんな記述を見つけました。
躁病についての記述ソニー㈱の有能な社員達にも、三菱電機で優秀と言われる社員にも、見事に当てはまる症状です。 特に、間違いを指摘された時に逆ギレするのは、webmasterにはない独特の症状です。 Webmasterは数十年前の少年時代は別として、自分の間違いを指摘されたら笑顔でお礼を言えるくらいの余裕を持ち合わせているつもりです。 彼らは集団で躁状態なのか、日本企業は皆集団ヒステリー状態なのか、webmasterは医者ではないので判断つきません。
2015年のことです。 部全体の会議で、責任者が言いました。 「今年度が一番大変だけど、これを乗り切ったら来年度は楽になるはずだ。 力を合わせて頑張ろう。」
会議が終わった後、webmasterは個人的に責任者に指摘しました。 「現場の人間は半分以上が常駐契約で、来年にはここにいないのが確実だから、先程の発言は励ましになりません。」 責任者は、「今、契約の人から来年正社員に迎える人を選んでいるところだ。」と言いましたが嘘です。 Webmasterの知る限り、ソニー㈱で契約から正社員になったのは、セクハラ被害を訴えた女性一名だけです。
ネットにこんなリンクを見つけました。
ソニーの部長が創業65年の中小企業の社長になった引用します。
「共感という点でいえば、私が40代のころ、たいへんに優秀な男性社員がいたことを思いおこします。当時、彼は30代前半。情熱家で、仕事に関する知識が豊富で、協調性もあります。バランス感覚が実に優れていました。彼はまだ若かったこともあり、職位が上の人にひるむことなく、反論することも時々ありました。それでも、上の人は抑えつけることをしませんでした。「この部下に言われるならば、仕方がない」と感じていたのではないかな、と思います。
彼は周囲に共感することができるし、多くの社員から共感されるだけの人間力を兼ね備えていたのでしょうね。その後、同世代の社員よりも早く昇格していきました。今も活躍していると聞きます。私は、彼がいずれはソニーの社長になるのかもしれないと思っています。」
Webmasterは、SONYの社内で協調性に秀でた社員に会ったことがありません。 マウンティングが大好きで、嘘の技術論をばらまいて自慢するエンジニアならば、掃いて捨てるほどいますけど。 もしかして、ソニーとSONYって別の会社なんでしょうか。
このコラム筆者は1988年にソニーに入社して20代で社長室にいたそうですから、盛田会長の最後の秘書を知っているはずです。 彼女は前夫から離婚する時にぶんどったマンションに住んで、クウジット㈱社長の愛人をしています。 ヒステリーなのは、相変わらずです。
2015年のことです。 Webmasterが常駐開始した部署で、担当ハードウェアの試作が2ヶ月遅れていました。 なんでも、LED駆動LSIを数十円安い別チップに変更するとかで、再設計していました。 全世界でたかだか1万台程度しか売れない機種で1台あたり数十円節約してどうなるというのでしょうか? ソフトウェアエンジニアの集団を2ヶ月待たせた損害は、節約分の10倍以上だと思うのですが。
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日本語のマスコミしか知らない人はヤバい「ナショナリズムに凝り固まらずに、英語を勉強して国際的な視野を手に入れよう」みたいな話を茂木氏が話しています。 初めてNHKスペシャルに出た時に、親会社ソニー㈱の登録商標「クオリア」を連呼していた人の言うセリフでしょうか?
引用します。 「今まで日本は輸入大国で、大学の先生も、輸入業者と言ったら失礼だけど、向こうのものを日本語に翻訳することで商売をしてきたのだけど、これからは輸出もしないといけないと思うんですよ。」 ソニーCSL研究所の歴代所長も輸入業者でしたね。
そもそも、他人を「輸入業者」と批判している茂木氏自身が、英語を活用した事例として米国出張中にビデオを楽しんだことと、YouTubeの動画でGoogleの最新技術を勉強していることしか上げていません。茂木氏も輸入業者というわけです。
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天才プログラマーがグーグルを蹴りソニーを選んだ「決め手」SONYも「webmasterの上にSONY社員を置こう」としないで、「webmasterの下にSONY社員を配置しよう」と考えるならば、今からでも様々なイノベーションを実現できるんですがね。
実際にSONYが欲しがっているのは、「イノベーション」ではなくて「広告塔」なので、「世の中から天才と呼ばれているプログラマー」にでもならなければ、声はかからないでしょう。
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ホンダの英国工場閉鎖は歴代経営者による「人災」だ「ユニークな商品を次々に開発しているように見える会社も、中では集団無責任体制になっていて、足の引っ張り合いをしている」という話です。 ソニー㈱と全く同じですね。
ソニー㈱の子会社であるソニーCSLにかつて在籍していて、今では副所長と東大教授を兼任している研究者暦本氏の話です。
暦本氏は、PlaceEngineとCyberCodeを発明したことになっています。 Webmasterが2008年頃にクウジット㈱を手伝っていた時、クウジット㈱の飲み会で暦本氏と同席しました。 かねてから疑問に思っていたPlaceEngineの仕様についてたずねようとしたのですが、クウジット㈱の社長愛人が話題をそらします。 その他にも暦本氏に技術的な話題を振るたびに、必ずクウジット㈱関係の人間が割って入って話題をそらしてしまいました。
Webmasterの想像になりますが、暦本氏は世間で思われているほどには技術に詳しくなく、クウジット㈱の人間はそれを悟られまいと話題をそらしていたのでしょう。 暦本氏もこの親会社ソニー㈱に何百人もいる有能なエンジニアと同じで、自分では成果を出せないタイプだったのでしょうね。
CQ出版社のインターフェース2012年12月号に、webmasterはWi-Fi測位の説明記事を書きました。 原稿を書いているときクウジット㈱に「PlaceEngineの商標を出して宣伝してあげようか?」と言ったのですが、断られています。 いろいろ後ろめたいことがあるようです。
Webmasterがソニー㈱の新入社員だった1989年のことです。 新入社員研修で労働組合の説明がありました。 人事の説明では、全部で組合が3組織あるとのことでした。 一つは工場系、一つは本社系、そしてもう一つは管理職も参加している組合です。
労働組合とは、労働者が会社と団体交渉するための組織ですから、管理職は参加できないはずです。 三つ目は、本来の労働組合ではありません。 なぜか人事の説明では、労働組合に入れていました。 大企業の人事なんて、この位勉強不足です。
Webmasterがソニー㈱の新入社員だった1989年のことです。 ネットワーク経由で音声データを交換するインターフォンプログラムを組んでいました。 その時の会話です。
1989年頃、NEWS-OSのカーネルソースコードの話です。
当時Unixのソースコードを商用で使おうとすると、大きく2種類のソースコードが入手できました。 ATTのSystemVと、BSDです。 当時のSystemVには、足りないものがたくさんありました。 仮想記憶、TCP/IPネットワークプロトコルスタックなどです。 また、米国ではunixがASCIIコード以外の文字コードに対応していなかったので、日本語化は日本のベンダーに任されていました。
カーネルをいじるほどの体力がないソニー㈱は、アスキー社がBSD unixを日本語化したASCII unixを購入、改造してNEWS-OSにしていました。 アスキー社とは、「NEWSが発売されたら、OSソースコードを渡して『エンサイクロペディア・NEWS』という書籍を出版させる」という密約を交わしていたようです。
ところが、NEWSを発売しても、ソニー㈱はアスキー社にソースコードを渡しません。 アスキー社は「約束を破った」と激怒していました。
ソースコードを渡せないのには、理由がありました。 ソースコードの品質が低いのも理由の一つですが、もう一つ社外に見せられないコメントがあったのです。 NEWSの前身は、数理技研で試作していた開発コード『エリザベス』です。 カーネルソースコードのコメントのアチコチには、「Copyright (c) SURI Shojima」と数理技研の昭島氏の署名が入っていました。 このままASCIIに渡してしまうと、ソニー㈱がプレスリリースした『NEWSの開発メンバー』と違う人がカーネルを移植していたことがモロバレです。 結局、2019年にこのWebサイトでバレてしまいましたけどね。
1989年のことです。 ワークステーションに音声入出力インターフェースを追加するため、所研究室の2年先輩石野氏がデバイスドライバを書いていました。 そのデバイスドライバは、排他オープンモードを持たず必ず共有可能でした。
Webmasterが、「複数のユーザーが音声デバイスへ同時に書き込むと、メチャクチャな音声が再生されるから、排他モードにした方がよい」と指摘すると、石野氏は「排他モードでオープンできるunixのデバイスドライバは存在しない」と言っていました。 どうやら、パラレルワールドから転生してきたらしく、この世のunixデバイスドライバを知らないようでした。 石野氏は出荷前に手塚神様から同じ指摘を受けて、ようやく排他モードを実装していました。
1989年のことです。 Webmasterは、X-windowのアプリケーションを試験していました。 リソースファイルの文字列を書き換えて、アプリケーションの表示が変わることを確認していると特定の文字列を表示しません。 『表示』というメニューを作ろうとしても、文字化けしてしまいます。
X-windowの担当者入江氏に訴えたところ、「それは仕様です」と言われました。 当時のNEWS-OSは、ASCII unixの移植だったので、日本語文字コードはSJISです。 SJISで『表』という文字は、2バイト目が0x5c ’\\ ’になります。 X-windowのリソースファイルパーサーがマルチバイトコードを認識できなかったので、SJISのうち2バイト目に0x5cが来る場合は『表\示』のように0x5cをもう一つ書く必要がありました。 なぜリソースファイルのパーサーをSJIS対応に改造しなかったのかは、不明です。
NEWSの開発エンジニアは、カーネルのバージョンアップに四苦八苦していました。 BSDやSystemV、Sun-OSは、順調に機能を追加してゆくのに、NEWS-OSに機能追加できるスキルが無いのです。
たまたま1989年にはMIPSのCPUを買ってOSソースコードがついてきたので、バージョンアップが出来ました。 でも、その後が続きません。 結局BSD系列を維持するのはあきらめて、数年後にSystemVに乗り換えました。 その頃には、SystemVにも仮想記憶、ネットワーク・プロトコル・スタック、日本語対応などが入っていたからです。
業界では、『BSD系列からSystemV系列に乗り換えた愚か者』の烙印を押されていました。
1989年ころ、NEWSのラインナップが拡充されました。 それまでデスクトップの800番代だけでしたが、タワー型の900番代が追加されました。 900番代の一号機は、慶應義塾大学理工学部の計算センターに納入されました。
900番代でシリアルポートの数などが増えているのですが、何故か増えた部分のI/Oが使用できません。 計算センターの職員が「デバッグを手伝うから」と言って900番代のカーネルソースコードを取り寄せたところ、拡張されたI/Oのデバイスドライバは、まだコーディングされていませんでした。
1980年代当時のunixでは、実行バイナリはa.out形式でした。 a.out形式のバイナリには、CPU種別やOS種別ごとに違うマジックナンバーを埋め込んで、識別するのがお約束でした。 しかし、ワークステーション事業部のエンジニアは、ASCII unixのVAX-11向けソースコードを入手して、マジックナンバーを変更せずに出荷してしまいました。
おかげで、VAX-11向けのバイナリとNEWS向けのバイナリが混在していると、どちらのバイナリなのか実行してみないと区別できません。 当時のunix関係者には有名なトラップでした。
NEWSでコマンドが不具合を起こすと、コンソールに『NV■ラ8k』という文字列がよく出力されていました。 実は、printf(NULL);を実行すると『NV■ラ8k』が出力されるのです。 何のことはない、アドレス0からのデータでした。
Sunのワークステーションでprintf(NULL);を実行すると、アドレス0にページが割り当てられていないため『Segmentation fault』になるのですが、NEWSのユーザー空間のアドレス0には、C言語のランタイム・ライブラリが割り当てられていたため、読み出し可能なのでした。
Yahooのトップリンクでこんな記事を見つけました。
マウンティングしてくるアホは「サルだと思えば気が楽になる」〈dot.〉うーむ。日本企業はどこもサル山だったのか。 納得。 ところで、どこで働いたら人間に会えるのだろう?
2015年に大崎17階へ常駐していたときの話です。 ターゲットのOSがLinuxだったので、開発マシンもIntel CPUのLinuxでした。 LinuxのインストールDVDディスクは、ソニー㈱の情シスがオーサリングしたもので中身はUbuntuでした。 インストールする時、情シスが決めたルールを守るように言われ、その中に「DVDからインストールしたパッケージをインターネット経由でアップデートしてはいけない」というものもありました。
業務でsambaモジュールを追加インストールする必要が出てきたのですが、sambaをネット経由でインストールすると、sambaが参照しているライブラリがアップデートされてしまいます。 これでは、情シスのルール違反です。 てっきり、情シスが社内にUbuntuレポジトリのスナップショットを用意しているものと考えて探し回ったのですが、ありません。
上司に「情シスのルール違反になるからsambaをインストールできない」と伝えたら、「だれもそんなことを気にせずインストールしているから、お前もそうしろ」と指示されました。 大企業のルールなんてこんなものです。 コンプライアンスなんてよくも言えたものです。
2015年に大崎17階へ常駐していたときの話です。 ユーザーアカウントは、Windowsからネットワークログオンすることになっていました。 仕事で大容量のファイルをやり取りする必要があり、複数の課でファイル共有のサーバーを用意していました。 ところが、17階から12階のサーバーを見ようとすると、サーバーの名前は見えるのですが、ディレクトリを見ることが出来ません。 正社員は、問題なくアクセスできます。
どうも外注のアカウントはフロアー間をまたぐことが出来なかったようです。 別フロアーのファイルが必要になるたびに正社員に依頼してコピーしてもらっていましたが、毎回文句をいわれました。 でも、webmasterに落ち度は無いと思っています。
その後、ソニー㈱の別部署の人に事情を聞いた所、勝手にサーバーを用意することは情シスが禁止しているとのことでした。 守れないルールを押し付けて、現場が反抗することは大企業によくあることです。
Yahooのトップにこんなリンクを見つけました。
ソニーだけが1000万円超え 大手電機8社の「平均給与」は重要な仕事、難しい仕事は外注に丸投げの人たちが、平均給与1000万円超えですか。 いい身分ですね。 外注なんて、交通費、健康保険費など全部自分持ちで月報50万円サービス残業付きです。
Webmasterが就職した1989年には、まだ昭和の安全衛生の考え方が残っていて、労災をゼロにしようと努力していました。 2015年のこの職場は、労災を減らす努力をしません。 エンジニアがハンダごての電源を入れっぱなしで帰ってしまい、翌日出社した人が気づくこともよくありました。 そもそも、こて先が極端に酸化してエグれているのに、よくもSSOPなどの細い箇所をハンダ付けできるものです。
多分2015年の経営者は、「保険金のモトをとるために、少し位は労災が発生してもらわないと困る」と考えていたのでしょう。 そういう時代になりました。
大崎にあるビルは、21世紀に建てられたと記憶しているのですが、設計に安全軽視の点があります。 例えばフロアーの通路が狭く、角が直角になっています。 角を曲がろうとしたら、反対側から大量の機器を抱えた人物が走ってきてぶつかりそうになることなどしょっちゅうです。 しかも、ただでさえ狭い通路にロッカーを並べてあるので、人がすれ違うことすら困難なくらい通路が狭くなっています。 みなさん、通路ではなくデスクの隙間を通っていました。
2015年のことです。 Webmasterは大崎17階に常駐していました。 ある日偉い人の視察があり、webmasterが因縁をつけられました。
ここで正社員が割って入ってウヤムヤになりました。
1989年のことです。 有能なソフトウェアエンジニア林氏が、はんだ槽に氷を投げ込んでハンダが飛び散るのを面白がっていました。 有能なエンジニアほど中身がお子ちゃまなのは、なぜでしょうか。
1989年のことです。 職場の出退勤は、ビルの中のタイムレコーダーに社員証を通すことで時刻が記録されていました。 Webmasterの標準勤務時間はAM8:30から1時間の休憩を含んでPM5:30まででした。 タイムレコーダーには、出勤時8:29までに通し、退勤時PM5:31以降に通すことになっていました。
さりげなく、勤務時間は1日あたり8時間と1分です。 周りの正社員は全く気づかず、指摘してもスルーでした。 一流企業の正社員は細かいことを気にしないんですね。 通りでSEとしての仕事も大雑把なわけだ。
1989年のことです。 朝の通勤時間帯にJR横浜線が止まったことがありました。 橋本駅から通勤していた先輩は、会社に80分遅れで到着しました。
人事は、JRによる遅延だと認めません。 人事の主張は、「JRは運転が止まった時間を70分間と言っている。80分は10分余計にかかっているから遅刻だ。」だそうです。 「運転再開は70分後でも、再開直後の車両は混雑していて乗れなかった」と主張してもダメです。 杓子定規な人事でした。
Yahooのトップリンク NEC「新卒年収1000万円」の衝撃 年功序列の廃止か、「3流国への没落」か の記事から ソニーが「新卒に年収730万円」、最大のカベは中高年社員の嫉妬!? のリンクを見つけました。
「Sonyが優秀な人材を集めるために、高い初任給を提示した」 という話です。 上手く行くはずがありません。 なぜなら、今のSonyは技術の殆どを外注に頼っているからです。 自称優秀な社員は、プライドが高いだけで成果は出さないし、他人の足を引っ張ります。
「優秀な外注にはそれ相応の単金を払っている」と威張りますが、実際には「それ相応」の半分しか出ません。
日本のエクセレントカンパニーなんて、この程度です。
1988年頃のことです。 慶應義塾大学理工学部の相磯・所研究室OBから、「SONYへ見学に来い」と現役学生に誘いが来ました。 行ってみると、発売前のNEWSの試作品を見せてもらえました。
2枚の基板にはMC68020が2個とペリフェラル、多数の74F/74ALSゲートが乗っていました。 Webmasterが「ロジックをゲートアレーに納めれば、もっとシンプルになりますね。」と言ったら、堀氏が「ゲートアレーを使うと遅くなる。」と返答しました。 Webmasterの理解では信号処理の速度も開発TurnAroundTimeもゲートアレーの方が早いのですが、何が遅くなるのか2019年の今でも理解できません。
SONYの有能な人が考えていることは、webmasterにはさっぱりわかりません。
1989年のことです。 ネガティブ思考の田中統括課長とTRONの話題になりました。 TRONを提唱した坂村健東大教授(当時)も田中統括課長やwebmasterと同じ相磯・所研究室の先輩です。
1989年4月のことです。 新入社員だったwebmasterは、販売実習に行きました。 全新入社員が2人1組のチームになり、首都圏のどこかの系列販売店に行き、ビデオカメラを売り込みます。 訪問販売員の身分証を持たないので、ビデオのデモンストレーションをした後、販売店のセールに誘導することになっていました。
Webmasterが行ったのは、多摩地区です。 入社2年目の初対面の先輩社員も同じ販売店で販売実習をしていました。 その先輩社員に連れられてニュータウンへ行き、販売実習の始まりです。 先輩社員曰く「このニュータウンの右側は左側よりも家の購入価格が高いので、右側を重点的に訪問するように」とのことでした。
ところが、訪問を始めてみると様子が違います。 家の購入価格が高い地区は、子供が小学生になっている家庭が多く、すでにビデオカメラをもっている家庭ばかりでした。 逆に安い地区は、子供が幼稚園に入ったばかりで、ちょうどビデオカメラを購入しようとしていた人たちで、反応が良かったのでした。
マーケティングなんて、本当に当てになりません。
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センサーデータによる故障予測AI開発を無料で体験!自社製品の故障予測さえまともにできないで『ソニータイマー』と揶揄されているのに、他社の故障予測などおこがましいです。 それともネタなんでしょうか?
1989年のことです。 家電メーカーは、よく秋葉原の駅で『出口調査』をしていました。 家電量販店の紙袋を持って秋葉原駅に入ろうとする人を呼び止めて、「何を買ったか」「いくらで買ったか」「ほしかった商品が買えたか」などのアンケート調査をしていたのです。
ソニー㈱もポータブルオーディオの出口調査を統計化していました。 販売シェアではソニー㈱は下位だったのですが、『本当に欲しかった機種』では上位に入っていました。 社内ではこれを評価して、「ソニー㈱製品のイメージシェアは大きい」と自己満足のネタに使っていました。 Webmasterに言わせれば、『本当に欲しかったソニー㈱製品以外を購入した理由』を掘り下げないと、売上上昇には繋がらないと思えるのですが、ソニー㈱社員は違う考えを持っていたようです。
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ソニー、電気自動車「VISION-S」を披露。360度オーディオも【CES2020】ソニークォリティの電気製品に人の命を預けるのですか? 自信過剰で狂気の沙汰だ。 先に、ハードウェア/ソフトウェアを作るときに仕様書を書く習慣をつけようよ。 自動車業界って「C言語ではポインタや3項演算子は難しすぎてバグの元になるから使ってはいけない」という世界なんだから。
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ソニーがクルマを作ったのは、「車両のシステムアーキテクチャまで理解するため」後出し情報で、「ソニー㈱が今すぐ車載システムを作るわけではない」と言い出しました。
引用します。 『複雑なシステムアーキテクチャをシンプルにしたり、高性能にしたりするのは、ソニーがこれまでにもやってきた。』
事実と異なります。 シンプルなものをわざと複雑に実装してハマったり、高価格にしたりするのをやってきたのがソニー㈱です。
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Prediction One広告から引用します。 『ソニーグループの様々な事業や業種で幅広く活用されています。』 『製造業 機器の故障予測で日々の手間がかかる定期点検を効率化』
ソニータイマーがどの位延長できたか、エビデンスを示してごらん。 できるものならやってみな。
1989年のことです。 ワークステーション事業部の営業は、unixワークステーションを新しい顧客に売り込もうとしていました。 新しい顧客は自分でプログラムの組めるエンジニアや理工学部の学生ではないので、ワークステーション上で動作するシステムも同時に納めなければなりません。
当時、unixのアプリケーションを書けるソフトハウスは数えるほどしかありませんでした。 特にBSD unixは、商用とみなされていなかったので、SystemVよりも技術者が少ない状態でした。
営業は強引にシステム開発を進めました。 SystemVの経験しか無いソフトハウスにNEWSを置いて開発を無理やり担当させたのです。 「BSDなんてSysytemVと大して変わらない。わからないことがあったら、サポートに電話して。」とか言っていました。 これを真に受けたソフトハウスは、BSDに入門するための質問をサポートに電話かけまくりです。 おかげで本来は故障対応するためにサポート窓口が、ソフトハウスの質問電話でてんてこ舞いになり、業務がストップしてしまいました。
サポートの課長は、怒って営業に詰め寄りました。 これ以降、営業とサポートの関係は冷戦へと突入します。
1989年のことです。 突然、ソニー㈱全社に通達が出回りました。 「マスター/スレーブという言葉は、スラブ人への差別用語にあたるので、今後使用しないように」とのことでした。 サーボなどではマスター/スレーブという用語はよく使います。 「代わりにどんな用語を使えばよいのか? 社外の人が使っている時、会話はどうすべきか?」と質問したのですが、答えはありませんでした。
2015年に久しぶりにソニー㈱で働いたら、普通に「マスター/スレーブ」という用語を使用していました。
1989年のことです。 スーパーマイクロ事業本部長の土井氏が「全平社員と会食して率直な意見を聞き出す」と言い出しました。 数百人いる部署なので、一度に5〜6人づつ毎昼食時にローテーションで会食することになりました。
Webmasterも質問を用意しました。 「毎週月曜日の朝礼では来月にもNEWSが全世界でワークステーションのトップマーケットシェアを取得できそうな話をしていますが、本気ですか?」というものです。 ところが、川上係長が「会食前に話題の調整をする」と言い出して、webmasterの話題は却下されました。 何のために、事業本部長は全員と会食したのでしょうか。
2008年ころのことです。 クウジット㈱に常駐していたwebmasterは、PlayStationPortable向けにPlaceEnginを移植する作業を任されました。 PlaceEngineをライブラリとして移植し、現在地を表示するだけではありません。 なぜかPlaceEngineアプリケーションは、メディアプレーヤーの機能も持たせて、写真撮影やMP3再生機能まで要求されました。
SCEのローカルルールでは、PSPで写真撮影するときシャッター音を出すことが必須でした。 シャッター音のデータがライブラリに見つからなかったのでSCEに質問すると、「シャッター音はご自分で用意してください」とのことでした。
さらに、もうすぐ開発が終わりそうなときに仕様追加がありました。 MP3再生機能に『再生音を出しながらの早送り巻き戻し』を実装せよとの指示です。 でも、納期も開発費も据え置きです。 ソニー㈱お得意の下請けイジメでした。
そうして苦労して実装した機能は結局使われず、地図アプリにライブラリが組み込まれただけでした。 無茶言って追加した機能は、作っただけ損です。
2015年のことです。 ソニー㈱で常駐していたwebmasterは、平均して3日に2回開かれる会議に出ていました。 この会社の正社員は、議事録が嫌いで書こうとしません。
会議で決めたことでも、議事録がないので「言った」「言わない」の水掛け論になることがしょっちゅうです。 Webmasterが議事録を書いて回覧しても、「余計なものを回覧するな!俺は忙しいんだ」という社員ばかりで、次の会議ではすでに決まったことを蒸し返します。 全く、時間のムダでした。
ソニー㈱正社員の名誉のために書いておきますが、全正社員が議事録を書かないわけではありません。 数十人いる部の中で、一人だけ議事録を書く人がいました。 彼が出席しない会議は、議事録がありません。
2009年ころのことです。 WebmasterはPSPの開発環境を使っていました。 VisualStudioに似たIDEとコンパイラ、ライブラリ群が組で提供されていました。 このライブラリが毎週頻繁に更新されます。
しかも、更新によってライブラリの動作が変更されて、それまで動いていたアプリケーションが動かなくなることもしょっちゅうでした。 せめて互換性くらいは保ったままでアップデートしてほしかったのですが、ソニー㈱のエンジニアには無理な相談でしょうね。
2015年ころのことです。 Webmasterは大崎のビルに通勤していました。 2階のエントランスから、セキュリティゲートを通ると6機だか8機のエレベーターがあります。 このビルは25階分の全フロアーが同じ時間に始業を迎えるので、始業時間直前にはエレベーターホールから人が溢れるくらいの渋滞になっていました。 セキュリティゲートを通ってからエレベーターに乗るまで5分位かかります。
セクションごとに出勤時間をずらせばよいのに、融通の利かないエクセレントカンパニーでした。
1989年のことです。
事業部全体がビジネスショウでの展示の準備をしていました。 当時のNEWSは画面の色数が256色でパレットで24bitRGBにマッピングしていました。 自然画を表示するには、X Windowの枠などで使う色を確保して、残り240色程度で表示する必要がありました。 スキャナーで取り込んだ自然画を240色に減色するアルゴリズムは、川上係長が特許を取っていて、デモンストレーションすることになりました。
川上係長は、Walkmanのカタログに映っているモデルの写真をビジネスショウで表示することにしました。 以下、Webmasterと川上係長との会話です。
ビジネスショウでデモンストレーションしている最中に、webmasterは営業から文句をつけられました。
なんでwebmasterが怒られないといけないのでしょうか。 いまだに疑問です。
2015年のことです。 デジタル家電のデバイスドライバ担当になったwebmasterには、アプリチームのリーダーから「入出力とAPIの仕様書をかけ」と指示が来ました。 仕様が決まれば仕様書を書くことなんて楽なものです。
ところが、要求仕様がコロコロ変わります。 仕様をFIXして仕様書を書いたのに、アプリチームからの要求仕様が変わることなんて日常茶飯事です。 2種類のデバイスドライバを実装するのに、仕様書は10冊位書きました。
しかも、アプリチームの開発するアプリには仕様書がありません。 いきあたりばったりに実装して、完成した頃に仕様変更で作り直したりしていました。 まともなプロジェクトを完了した経験のないエンジニアなんて、こんなものです。
1989年のことです。 Webmasterは、ソニー㈱の経営戦略本部長の息子が立ち上げたベンチャー企業へ行くため、辞表を提出しました。 退社日は、ソニー㈱の都合で月末にはなりませんでした。
ソニー㈱は、「月末になる前に退社したから」と、その月の健康保険料と年金を支払っていませんが、webmasterには黙っていました。 多分、健康保険料と年金をごまかすために、わざと退社日を前にずらしたのです。 後で年金事務所から「1ヶ月分未納だぞ」と言われましたが2年以上経過していたのでもう支払えません。
2015年のことです。 試作機で周辺LSIを初期化できないトラブルが発生しました。 調べてみると、そのLSIは電源投入直後に自己リセットし、リセットから一定時間I2C線のプルアップが検出されないと動作停止する仕様でした。
I2Cラインの反対側は、Mediatek社のCortexAに繋がっています。 CortexAはフラッシュROMのブートローダーがLinuxのミニカーネルを起動し、ミニカーネルが本物のLinuxシステムを起動する手はずになっていました。 CortexAのGPIOを設定してI2Cラインをプルアップするのは、Linuxカーネルの初期化ルーチンに書かれていました。 電源投入からプルアップまでに数十秒経過するので、周辺LSIは動作停止して当たり前です。
結局、試作基板を改定して、CortexAが動作停止したLSIのリセットラインを叩くことになりました。 周辺LSIが動作停止することなど、LSIのデータシートを読めばわかることです。 「なぜ基板設計する前にデータシートで確認しなかったのか?」とたずねたら、ハード屋は「データシートを読むのはソフト屋の仕事だ」と答えました。 やる気のないハード屋です。
2015年のことです。 Webmasterが常駐していた大崎のビルのエレベーター内部には、監視カメラがありました。 乗り込んだ人数が多いと、「混雑してご迷惑をおかけします」みたいなアナウンスが流れます。
でも、このカメラはバカです。 エレベーターが満員になっているのに、だれも降りない階で乗る人が待っていると止まります。 車椅子の人が乗降していても、ドアを閉じるタイミングを遅くしてくれません。
そもそもエレベーターのどこにも制作した会社名が書いてありません。 どこかの不良品でも掴まされたのでしょう。
1989年のことです。 DSPでADPCMのcodecを組んでいたチームは電話魔でしたが、webmasterを罵倒するときだけメールで要件を送ってきました。 Webmasterは罵倒メールに返信する時、何が起きているか知らせるため必ず彼らの上司をCCアドレスに入れていたのですが、それが気に入らなかったみたいで電話でイチャモンつけられました。 まあ、webmasterが何をしてもしなくても、文句を言わずにはいられない人たちでしたが。
ソニー㈱のエンジニアなんて、そんなものです。
1990年のことです。 当時ソニーはSCSI接続の5インチMOドライブを販売していました。 Webmasterのいた会社で、MOドライブを2台借りていました。 1台はディスクを縦にローディングするタイプでもう一台は横でした。
ソニーの言うことには、「縦型も横型も同じように使える」とのことでしたが、つなぎ替える度にトラブルが発生します。 調べてみたら、横型のMOドライブはセクタの読み書きにSCSIの6バイトコマンドのみが使用できましたが、縦型は10バイトコマンドのみが使用できる状態で、受け付けるSCSIコマンドに互換性はありませんでした。
ソニーの商品管理なんて、この位いい加減です。
1989年のことです。 内線電話の応対をしていたWebmasterに1本の電話がかかってきました。 「下請けの会社からプリントパターンが上がってきたので取りに来てほしい」という受付からの電話でした。 受付まで行って、サインをしてバイク便業者からプリントパターンを受け取りました。 宛先のエンジニアの座席に行くと、部下ともども不在です。 プリントパターンをデスクの上に置いて自分の仕事に戻りました。
昼休みになって、プリントパターンの宛先エンジニアが血相を変えて怒鳴り込んできました。 「作業部屋でプリントパターンが届くのを待っていたのに、座席に置きっぱなしにするとはどういうことだ!」だそうです。 プリントパターンを待っていたのであれば、受付に人を待たせるなり、座席に行き先を書いておくなりすべきではないでしょうか。 Webmasterにどんな落ち度があったのか、いまだに謎です。
1984年頃のことです。 HitBitの販売促進で書籍とフロッピーディスクを組みにした『フロッピーマガジン』というメディアが売られていました。 フロッピーマガジンの編集者は日本ソフトバンクのOh!HitBIt編集部を訪問し、「参考のため」と言ってwebmasterのゲームをコピーして、無断で掲載してしまいました。 掲載後口頭での謝罪をうけましたが、金銭的保証で揉めました。
2012年頃のことです。 ソニー㈱からKoozytに「PlaceEngineのバグが出たから直せ」とクレームが入りました。 その対応の話です。
具体的には、NECのパソコンの特定機能に不具合が出るという話でした。 当時のNECのノートパソコンとWi-Fiアクセスポイントの組み合わせの中には、アクセスポイントに地デジのチューナーが入っていて、Wi-Fi経由で地デジのデータを転送し、ノートパソコンで再生できるものがありました。 そのノートパソコンで地デジを見ている時にPlaceEngineが動作すると、地デジ再生が途切れるというクレームでした。
Webmasterに言わせれば、何重にも使い方が間違っています。
調べてみたら、たしかにPlaceEngineにもバグがありました。 1回の測位でなぜか2回もWi-Fiのスキャンをかけているのです。 Windows向けPlaceEngineのバージョン2を実装したレピダム社の菊池氏が入れたバグなのか、KoozytでPlaceEngineをメンテしていたオンドレ氏が入れたバグなのかは不明です。
1989年のことです。 当時の製造業では、KYT(危険予知トレーニング)というものを全社員に受けさせるのがお約束でした。 工場など危険な機械がある場所で、自ら危険を増やさないように常識をつけさせるトレーニングでした。
ソニー㈱のワークステーション事業部でもKYTを実施していたのですが、先輩社員はバカにして受けません。 真面目にKYTをしていたのは、日立から転職してきた社員と入社1~2年目の新人だけでした。 だから、半田槽に氷を投げ込むようなバカが出てくるのです。
1989年のことです。 ワークステーション事業部の坂本氏が、社内のソフトウェアエンジニアにC言語のレクチャーをしていました。
内容は、「min()マクロに渡す引数にインクリメント演算子をつけると引数が場合によって2回評価されて副作用がある」とか「scnaf()やその親戚を使い時は、返り値を確認しないとパースに失敗する」といった初歩的な内容でした。 表現を変えると、ソニー㈱の自称優秀なエンジニアは、その程度の初歩的な間違いをするのです。 わざとでしょうけど。
1989年のことです。 ソニー㈱もワード・プロセッサーを販売していました。 このワード・プロセッサーがスーパーマイクロ事業本部では、評判が悪いのです。
石野氏は「ソニーのワープロは外注が作っているからたいしたことないんだ」と言っていました。 でも、外注がつくるワープロは、スーパーマイクロの社員がつくるソフトウェアよりよっぽど高品質でバグが少ないのです。
後でwebmasterは、このワード・プロセッサーのソフトウェアを作っていた本人と一緒に仕事をする機会がありました。 当時ソニーが製品化する前から、この人は趣味でワード・プロセッサーのソフトウェアを組んでいたそうです。 それを見たソニーが「自前でワード・プロセッサーを製品化したいけど技術の蓄積がないから使わせてくれ」と言って、自社ブランドで商品化したそうです。
「たいしたことない」どころか、頼み込んで製品化させてもらった経緯があったのでした。 ソニー㈱社員がどれだけプライドが高くて技術力がないかを物語るエピソードの一つです。
1970年代のことです。 秋葉原の家電ショップではソニー製品の評判が非常に悪かったのでした。 理由は卸値です。
まだ定価表示ができた時代です。 一般の家電メーカー(東芝、シャープ、日立など)は、定価の7掛(70%)が卸値だったのに、ソニー製品は8掛(80%)でした。 同じ利益率を確保しようとしたら、人気のソニー製品だけ割引率が悪くなってしまいます。
消費者は卸値を知らず、割引率の数字だけ比較しますから、「この店はなんでソニー製品だけ割引率が低いんだ」というクレームになります。 クレームを恐れた販売店は、定価に対する割引率をメーカー間で等しくしました。
今度はメーカーからクレームが来ます。 「卸値を安くしてやっているのに、なぜソニーと同じ割引率なんだ」 もう、堂々巡りです。
当時、圧倒的な人気をほこったソニー製品だからできた技でした。
1989年のことです。 ソニー㈱の売っているIBM PC互換機のブランド名はQuarter-Lでした。 なんでこんな変な名前なのか、どこが1/4なのかみな知りたがっていました。
土井事業本部長によると、 「お客様の期待に応える」→「こたえる」→「コーターエル」→「クォーターエル」だそうです。 自慢気なのは土井氏だけで、残りはみな不満気でした。 「カルチェラタンにもかけてあるんだよ」と言われましたが、どうかけてあるのかわかりません。 ソニー㈱のネーミングなんてみんな自己満足レベルです。
1989年のことです。 ワークステーション事業部で、ネットワークにパケットストームが流れてダウンしました。
NEWSのEthernetインタフェースにつけられたMACアドレスは、UVEPROMに格納されていました。 このUVEPROMにMACアドレスを書き込む前に、ネットワークに繋いでしまった人がいるのです。 おかげでその個体のMACアドレスはブロードキャストアドレスになってしまいました。 当時はDHCPは使っていなかったのですが、RARPを使っていたのでブロードキャストアドレスからの問い合わせに複数のホストが返答し、パケットストームが発生していたのでした。
1989年のことです。 事業本部長が、自分の企画したCM動画を自画自賛していました。 なんでも、米国で有名なアルベルト・アインシュタインのそっくりさん俳優をつかって、お馬鹿なトークをさせたらしいです。 ところが日本では音声が日本語に吹き替えられるので、アインシュタインがお馬鹿トークをしているようには見えません。 例え、アインシュタインがお馬鹿トークをしているように見えても、「だから何」って具合です。 マスコミや業界の話題にも登りませんでした。
この広告動画をこき下ろしていたのが、広報部隊です。 「自分たちならもっとまともな映像を作れる」と言って作ったものを見せてもらいました。 イケメン俳優がフェラーリを運転して、埋立地にある奇抜なデザインの建築物の前に降り立ってノートパソコンをいじるだけです。 よく見るパターンでしたが、こちらも「だから何」って具合でした。
ソニー㈱社員は口先だけ偉そうですが、実績がついてきません。 今でもそうです。
2015年のことです。 福島氏が常駐解除した後、彼が担当していた機種で性能問題が発生しました。 BluetoothスピーカーをTVのマルチチャンネルスピーカーとして使おうとすると、音切れが発生するのです。 マルチチャンネルスピーカー向けに音声の同期メカニズムを実装していた担当者は、途方に暮れていました。
Webmasterは、福島氏のコードの手抜き具合を知っていたので、デバッグを手伝いました。 福島氏が書いたデバイスドライバ中のksleep()を全部my_ksleep()に置き換え、wake_up_interruptible()を使ってmy_ksleep()を実装し試験しました。 2時間の作業です。 すると、音切れは出なくなりました。 Webmasterを根拠もなく見下すエンジニアなんて、この程度の実力です。
2015年のことです。 常駐していた大崎のビルで、突然壁の向こうから轟音が響きました。 連続して聴こえてきて、仕事の邪魔です。
音源の場所を突き止めようとすると、壁に囲まれたブロックがあって中が不明です。 後で聞いた話では、ビルの空調システムが誤作動していたそうです。
2010年頃のことです。 当時Koozytで常駐していたwebmasterは、PlaceEngineもメンテしていました。 PlaceEngineはその動作原理上、DBにAPの偽情報が混入することがあったり、複数のAPからの位置推定が不確かだったりしました。
この問題を、「決定的に改善できる」と主張した研究者が当時のCSLにいました。 なんでもベイジアンフィルタの研究者だそうで、「この世の全ての問題はベイジアンフィルタで解決できる」と主張するタイプの人でした。
Webmasterは、「この世の全ての問題を一つの対策で解決できる」という主張は信用しません。 案の定、3年待っても具体的な解決策はCSLから提示されませんでした。
2015年のことです。 またもや特別有能な市川氏が登場します。
開発機の仕様決定会議での会話です。
ソニー㈱で有能な人って、すぐ嘘をつくから困ります。
2005年頃のことです。 品川区の小学生見守りシステムの設計打ち合わせをしていました。 ソニー㈱木原研の田中氏が、「俺って、自分を天才かと思った」と言い出しました。 「このノートパソコン、バッテリーが死んでいるんだけど、バッテリーを外してもノートパソコンって動くんだよね。 AC電源があるところならば、どんなノートパソコンも動くわけだ。」
Webmasterが反論しました。 「私はGateway SOLO-2150 というノートパソコンを使っていましたが、バッテリーを外すとAC電源がつながっていても起動しない設計になっていましたよ。」
田中氏は答えました。 「ふん!」
1989年のことです。 4月第1週に二日間の営業実習が行われました。 全新入社員が二人一組になって、家庭を戸別訪問します。
品川地区担当になった社員から聞きました。 五反田近辺のマンションを戸別訪問していたら、とあるマンションで1フロア全体が1戸だったそうです。 エレベーターを降りるとすぐに玄関があって、『盛田』と表札があったそうです。 でも盛田会長の住所は別なので、親戚が住んでいたのでしょう。
2015年のことです。 台風が来て、朝常磐線が運休になりました。 早めに到着したwebmasterは大崎にいましたが、あとから出社するはずの社員で出社できない人がいます。 その時の会話です。
2010年頃のことです。 Webmasterは、Koozyt社でPlaceEngineをVAIO type P にプレインストールするプロジェクトのマネージャーをしていました。 打ち合わせで品川のソニー本社ビルに何度も行きました。 受付で訪問者証を受け取るとエレベーターに乗れますが、エレベーターホールで降りてからはどこへもいけません。
受付から訪問者証を受け取る時点で、担当者には連絡が行っているはずなのですが、エレベーターを降りてから5分とか10分とか平気で待たされます。 「俺達ソニー社員は偉いんだ」とアピールしたかったのでしょうね。
1989年のことです。 スーパーマイクロ事業本部ワークステーション事業部で、unixワークステーションを地方に売るためのドサ回り行脚をすることになりました。 デモンストレーション内容の1つは、ワークステーション画面にNTSCテレビをスーパーインポーズする追加基板です。 Webmasterの同僚がコーディングしていました。
ドサ回りに行く前に、社内のデザイン部門にうかがいをたてることになりました。 でも、予定していた水曜日にデザイナーは来ません。 デザイナーはその週の金曜日、定時直前にやってきました。 その場でデザインにいくつもダメ出しして、「月曜日の朝までに直しといて」と言い放って去っていきました。 担当者が土日に休日出勤したのは、言うまでもありません。
意識だけ高い系には、いつも感心させられます。
2009年頃のことです。 VAIO type PにPlaceEngineをバンドリングするため、ソニー㈱本社ビルで打ち合わせが行われました。 PlaceEngineの『緑色ギア』アイコンをデザインした女性デザイナーも同席しました。
打ち合わせの途中で女性デザイナーは突然怒り出し、会議から退出してしまいました。 Webmasterには、彼女がなぜ怒り出したのか、全くわかりません。 ソニー㈱のデザイナーなんて、こんなものです。
1989年のことです。 NEWSの日本語オンラインマニュアルは、テクニカルライターではなく、エンジニアのボランティアが作成していました。 エンジニアが忙しくなれば、翻訳品質が落ちたり、翻訳が間に合わなくなったりしていました。
Webmasterが気づいただけでも、loadを『負荷』と訳さなければならないところで『読み込み』と訳して意味不明になっているマニュアルとかありました。 英語が得意な人ほど、意味不明の日本語訳を作ります。 本当に、『有能な人』って使えません。
Yahooのトップにbiz SPA!フレッシュのトヤカンによるリンクを見つけました。
過労死する働き方はなぜ減らない?「ソニー過労死問題」で考える身の守り方引用します。 『2021年2月26日、大手電機メーカー「ソニー」で働いていた45歳男性社員の突然死を、長時間労働が原因で起きた過労死と判断し、三田労働基準監督署が労災認定した。』
1989年のことです。 Webmasterの仕事しているビルで全体ミーティングが行われることになり、他のビルにも分散している社員が集まってきました。 ミーティングが始まるギリギリの時間まで、webmasterは仕事をしていました。
他の社員がwebmasterの操作画面を覗き込んで言いました。 「お前timeコマンドなんて使っているのかよ。 プロじゃねえな。」 なぜtimeコマンドを使うとプロじゃないのか、未だにwebmasterにはわかりません。
1989年のことです。 当時ソニーでは、「2時間以上残業する者だけが社食で夕食を食べても良い」というルールでした。 ある日webmasterは2時間以上かかる残業を命じられたため、社食で夕食を食べました。 帰ってくるなり上司に言われました。 「俺に急用ができたから、お前の今日の残業は中止する。 おまえ残業もしないのに社食で夕食を食っただろう。 この責任はとれよ」
Webmasterに落ち度はないと思うのですがねぇ。
1989年のことです。 NEWSにオーディオインターフェースの追加やNTSCスーパーインポーズ基板が追加され、マルチメディアファイルを扱うことになりました。 ファイル名の拡張子をどうするかで、オーディオ担当者が勝手に決めてきました。 拡張子の前に’.’を置くのではなくて’:’を置くことになりました。 「rcpコマンドの引数にマルチメディアファイルを指定すると、ホスト名とみなされてしまう」と文句を言ったら、「ファイル名の先頭に"./"を書けばいいんだ」と言われました。 面倒でした。
2006年のことです。 Webmasterは、クウジット㈱に常駐してPlaceEngineをVAIO type Pにバンドリングする準備をしていました。 SONY㈱のVAIO開発チームと技術的な詰めをするため、メールで連絡していました。 最初は、受信したメールに5分以内に返信していました。 社員の一人は、頻繁にメールを送ってくるのですが、内容がPlaceEngineと関係ありません。
SONY㈱正社員は、暇だから話し相手がほしかったのかもしれません。 Webmasterは同時に複数プロジェクトを抱えていたので、メールで雑談している暇はありませんでした。 メールに返答するタイミングを後ろにずらすことで対応しました。
1990年代のことです。 SCEはPS2の試作をしていました。 ハードウェアと同時に、アプリケーション開発用のライブラリも作成していました。
最初は、C++言語でライブラリを開発していたのですが、途中でメモリが足りなくなって、C言語に切り替えました。
実際に作ってみるまで、C++ではメモリが足りないことを理解できなかった模様です。
1989年のことです。 スーパーマイクロ事業本部のソフトウェアエンジニアのことを、土井事業本部長は「αマン」と呼んでいました。 αテスト品質のソフトウェアしか作れないからです。
学生時代さんざんアルバイトでソフトウェア開発したwebmasterから見ても、ソフトウェア開発手順はグダグダでした。 ソフトウェア開発で最初にエディタに向かってソースコードを書き始めます。 仕様書や状態遷移図など設計の手助けになる書類を一切書きません。 ソフトウェアのバージョン管理も、RCSを使いこなしているのは1割です。 試験もしません。 適当に他人に使わせて「バグを見つけたら報告してね」のレベルです。
Webmasterは開発手順の改善を提案したのですが、「そんな暇はない」「面倒なことを押し付けるな」「新人が偉そうに」と叩かれました。 21世紀になっても、ソニー㈱のソフトウェア開発は似たようなものですけどね。
今回は、プレイステーションのエミュレータの話です。 エミュレータとは、プレイステーションではないハードウェアでプレイステーションのゲームを走らせるソフトウェアです。
2000年頃Windowsマシンでプレイステーションのゲームができるソフトウェアが発売され、一部で人気でした。 エミュレータを開発していたのは、ソニーと資本関係にないプログラマーで、一部ボランティアもいました。 SCEは、このエミュレータ開発者に片っ端からスラップ訴訟を仕掛けました。 訴訟には勝てる見込みでも訴訟費用が捻出できない個人プログラマは、みなエミュレータの公開をやめました。
状況が変わったのはPS4以降です。 PS4以降はハードウェアの互換性がないため、初代プレイステーションのソフトウェアが動作しません。 慌てたSIEは、エミュレータを制作できるプログラマを募集しました。 でも、スラップ訴訟でプログラマに嫌われたソニーを手伝う人はいません。 今でもSIEは、エミュレータ制作者を募集しています。
また、ソニーは、プレイステーションクラシックというエミュレータを販売しています。 ARMアーキテクチャ上にエミュレータが動作しているのですが、このエミュレータはスラップ訴訟以降に開発されたフリーのエミュレータです。 本来、チューニングを重ねないとエミュレータはまともな速度で動作しません。 でも、ソニー社内にチューニングできるようなプログラマはいないし、外注に出したくても嫌われているのでだれも担当しません。 その結果、シューティングがまともに動かない激遅のエミュレータを発売しました。
ソニー㈱では、人事が正社員に定期的に研修を受けさせます。 内容はいろいろで、場合によっては現場を2週間ほど離れることもあります。
ところが、現場を離れる期間の対策を何一つ打ちません。 ある日突然正社員がいなくなって、聞いてみると「2週間研修でいません」とか言われます。 研修の社員に依頼していた仕事は予告なく2週間止まりますし、周辺の仕事にも影響します。 正社員の研修で遅れたスケジュールを、外注のせいにされることもよくあります。 「研修でいなくなるのに、なんで引き継ぎしておかなかったんだ」「そもそも研修でいなくなるなんて聞いていません」みたいな会話はしょっちゅうです。
ソニー㈱の正社員って、自分の都合だけしか考えていませんから。
1984年秋のことです。 Webmasterは早稲田大学のサークルMIS会長宅で、会長が学園祭のパンフレットを作成するのを見ていました。 使っていた環境は、パソコンがSMC-70で専用のワープロソフトを使っていました。 CP/M-80上でかな漢字変換も動作しています。
会長が『3号館』と入力しようとすると『3強姦』になってしまいます。 8bitマイコン上のかな漢字変換なので、学習機能はありません。 何度変換しても『強姦』候補が最初に出てきます。 辞書を学習させた人の品位が疑われる結果でした。
2018年1月のことです。 アイボが再発売されました。 空間認識プログラムにはSLAMが使われているそうです。 先にも書いたように2012年頃研究所が実装していたSLAMには、webmasterのロジックが入っています。
新アイボのSLAMは、わざわざ再実装したそうです。 2012年に実装したプログラムを6年経たずに再実装する必要があったということです。 そのくらい、ソニー㈱のエンジニアが組むプログラムの品質は低いのです。 今度のSLAMも後何年もつことか。
1989年4月の入社式でのことです。 人事が早速説教しました。 「駅から会社まで歩いてくる途中、赤信号を無視して歩いている新人をたくさん見かけた。近所には小学校もあって教育上悪いから、良識ある大人として信号は守りなさい」
さすが、プライドだけ高いソニー社員は、新入社員のときからわがままです。
2008年のことです。 Webmasterは㈱クウジットに常駐していました。 この年、VAIO type Pに搭載するPlaceEngineの試験担当者が足りなくて、クウジットは跡見学園からのインターンを3人採用しました。
ほとんど、無給のアルバイトとして手伝ってもらっていたのですが、ベンチャー企業のゆるい雰囲気とかそれなりに仕事の経験ができたことなどで好評だったようです。
翌年2009年に跡見学園から、「6人のインターンを受け入れてほしい」と打診が来ました。 もう、ベンチャー企業のステージが変わっていて、現場は殺伐としています。 断ったところ、跡見学園からソニー㈱経由で圧力がかかって、採用せざるを得なくなりました。
「クウジット社内に対応できる人間がいない」と言ったところ、ソニー㈱から社員が一人派遣されて、場所だけ提供することになりました。 なんのためのインターンだったのでしょうか。
2015年ソニー㈱大崎ビル17階での会話です
2015年のことです。 常駐した職場でハードウェアの設計変更が行われていました。 ソニー㈱では、設計変更で新しいバグを仕込むのが日常茶飯事だったので、webmasterはハードウェアの回路チェックもしていました。 設計変更でディスプレイLEDの駆動LSIが、他社製からTI製に変更になりました。
回路を見てみると、電流容量の大きい白色LEDには、LSIの出力4本が束ねられています。 このLSIは、1個のLSIに8本の駆動出力があります。 制御はSPIで1bit出力するたびに、LSIの内部レジスタが1bitづつシフトして、出力線のOn/Offが1本づつずれていきます。
出力が1bitづつずれてゆくので、4本の線を束ねた白色LSIは、On出力とOff出力の組み合わせになるタイミングがあります。 Webmasterはハードウェア設計者に、「On出力とOff出力がショートしてよいのか?」と質問しました。 ハードウェア設計者は大丈夫だというのですが、その根拠は、「TIの営業が大丈夫だと言っているから」だそうです。
自分でLSIメーカーの営業と話をするとわかりますが、彼らは口先ででまかせを言います。 技術的に間違ったことを言って、指摘されてもシカトします。 なので、LSIメーカーの営業の言うことなど当てになりません。
結局、データシートより詳しい設計資料を取り寄せましたが、LSIの出力はオープンコレクタになっていて、Onで電流吸い込み、Offでハイインピーダンスになる仕様でした。 それをデータシートに書いてくれれば良いのに、無駄な時間を使いました。
ソニー㈱は、初期からWIDEプロジェクトのIP接続に参加していました。 そのため、IPv4のクラスAアドレス空間をもらっていました。 IPv4のアドレス空間が枯渇しかけたとき、WIDEに「クラスAを返してくれ。新しくクラスCを割り当てるから」と言われたのですが、クラスAを返却しませんでした。
今でもクラスAを使っているかどうか確認しようとしたら、sony.jpとsony.co.jpドメインのWEBサーバーもメールサーバーも外注していて確認できません。
1989年のことです。 ソニー㈱社外秘の報告書で、ADPCMの改良アルゴリズムが書かれていました。 社外秘なので詳細は伏せますが、webmasterに言わせれば「本当に改良になるの?」と思われるようなアルゴリズムでした。
さらにひどいのが、改良結果の評価方法です。 改良アルゴリズムを実装した本人が、改良前後のソフトウェア変換結果を比較試聴して、「改良されたほうが音質が良い」と結論づけていました。 第三者を呼んだ二重盲検査すら実施していません。 どこまでも、自分中心なエンジニア達です。
ソニー㈱が宣伝で言う「音質が良い」はただの自画自賛です。
1989年のことです。 立石電機がLunaというunixワークステションを発表しました。 データショーだかビジネスショウだかで説明員をしていると、同僚が来ていいました。 「OMRONのブースにLunaが展示してあるから見に行こう」 Webmasterは、他社製品を見学するよりも自社製品の信頼性を高めるべきだと思ったのですが、同僚は「ライバル製品を研究するのも仕事だ」と言って引っ張られました。
OMRONのブースで説明員に名刺を渡すと言われました。 「またソニーさんですか。 今回の展示でソニー社員の名刺が数百枚溜まりましたよ」 新しいものに目のないソニー㈱社員です。
2016年のことです。 デジタルオーディオの技術について話していたら、ソニー㈱のエンジニアが光ファイバーのデジタルインタフェースを SDIF と呼んでいました。 「いやそれは S/PDIF だよ」と指摘すると、「社内ではSDIFと呼んでいる」とか言います。
規格に詳しい人には当たり前の話ですが、SDIFとS/PDIFは別物でどちらも存在します。 SDIFとS/PDIFの半分を考案したソニー㈱のエンジニアですら、そんなことが分かっていませんでした。
1970年代のことです。 ソニー㈱は、IC(当時はトランジスタの集積度が20石とか25石とか言っていた)を説明するためのサンプルを配っていました。 透明な箱の中にDIPパッケージを削ったIC基盤が見えていて、ルーペでのぞけるようになっていました。
ところが、ルーペでのぞいても配線パターンしか見えません。 ICの上に微細なトランジスタや抵抗が乗っていることを説明していないのです。 かえって誤解を生みそうなサンプルでした。 昔から説明の下手な会社です。
2001年ごろのことです。 PS2にオプションのソフトウェアを読み込むと、動画DVDの再生ができました。 WebmasterはPS2のアナログRGB出力に、ブラウン管モニターを接続してDVD鑑賞していました。
DVDソフトウェアは何度かバージョンアップした後、画面が緑色に表示されるようになりました。 WebmasterがSCEの豊君に文句を言ったところ、「AV業界でアナログRGBにはDVD画像を出力してはいけないことに決まった」と言われました。 業界の勝手な取り決めで、予告なしにいままでできていたことが禁止されたのです。
2007年ごろのことです。 Webmasterがクウジットで開発していた時、やめソニーのエンジニアが手伝いに来ました。
Webmasterと同じAndroid HT-03Aを持っていたので、「同じ機種ですね」と声をかけたところ、「俺のはGoogleのセミナーで入手した特別版だ! 一緒にするな!」とムキになります。
やめソニー氏の仕事が終わった時に社交辞令で「なにか良い仕事が来たら私にも紹介してください」と言ったところ、「紹介なんかするもんか! なんでお前なんかに紹介する義理がある!」とこれまたキレました。
やめソニーなんてみんなこのくらい礼儀知らずです。
1989年のことです。 スーパーマイクロ事業本部ワークステーション事業部企画設計課で、GCCとATTのPCCとの比較の話題になりました。
想像力のないエンジニアです。
2012年ころのことです。 Webmasterは初めてPS3を中古で買いました。 初期型です。 「初期型のPS3はLinuxが動作する」と聞いていたので、事前にLinuxのCD-ROMを用意してありました。 ところが、Linuxをインストールできません。 いい加減な製品です。
2008年ころのことです。 WebmasterはPSPにPlaceEngineを移植していました。 ソニー㈱のソフトウェアに歳用されることになったのですが、当時のソニー㈱の内部規則で『使ってはいけないライブラリコール』というのが決まっていました。 「strcpy()はstrncpy()よりも危険だから使ってはいけない」という類のものです。
使ってはいけないライブラリコールがあるのならば、libcから外しておけば良いものを、そのまま使っていたのです。 暦本氏が作ったPlaceEngineソースコードのわけのわからないディレクトリ構成で悩むことになりました。
1990年のことです。 上級取締役になりたい情報システム営業本部システム技術部統括部長が暴走していた話は、以前に書きました。
この時情報システムの取引先には、㈱アプリックスがありました。 情報システムに監査を入れたのは郡山史郎経営戦略本部長です。 そして、当時の㈱アプリックス社長は郡山史郎の息子である郡山龍です。 ㈱アプリックスは、ある意味情報システム営業本部システム技術部統括部長の共犯だったのですが、郡山史郎の采配によって被害者扱いしてもらいました。
1990年のことです。 1989年末にソニー㈱を退社したwebmasterは、企画設計課の田中課長に「Newsを貸すから次の会社でインターホンアプリを完成させろ」と言われていました。 その後半年間、毎週「いつNewsを貸してもらえますか?」と電話で確認していたのですが、いつも「貸出手続きに時間がかかっている」と言うばかりです。
事務手続きの苦手なソニー㈱です。
1988年頃のことです。 フォアチューン社の資産管理をするペーパーカンパニー㈱アプリックスが、営業活動を始めました。 フォアチューン社のメンバーが喧嘩別れしたからです。 ㈱アプリックスのメインバンクは当時の三井銀行です。
実績のない小規模ベンチャーのメインバンクが三井銀行になったのは、㈱アプリックス社長の郡山龍が当時のソニー㈱経営戦略本部長郡山史郎の息子だったため、郡山史郎氏が三井銀行に頼み込んだからです。
1988年頃のことです。 ソニーのスーパーマイクロ事業本部がnewsの試作品を見せるために慶應義塾大学相磯・所研究室の学生を呼びました。 その場での会話です。
1989年のことです。
数カ月後
1989年のことです。
2週間後
6週間後
2016年の会話です。
大学の先輩がソニー㈱入社一年目で話した愚痴です。 「職場で使っていたアセンブラについてきたリンカだけど、バージョンアップで大文字小文字を見分けるようになったんだ。 そうしたら職場の先輩が『AAA3文字で8種類のラベルが作れる』って喜んでいる。 バカじゃないの!」
1990年9月に入社した三菱電機㈱は、会社全体に全くやる気がありませんでした。 入社当日に初対面の上司黒田CSからいろいろ言われました。 「お前が来ることなんか予定になかったから、相手する気はない!」 「エンジニアが会社に1時間いるだけで7000円のチャージがかかるのに、入社3年未満の社員は会社に利益をもたらさないから、出社するな!」 「二人の社員が30分話すだけで、会社に7000円の損害を与えている勘定になるから、会社では口をきくな!」 この上司は、会社から『非常に優秀』という評価を受けていました。 Webmasterは、入社日以来現在に至るまで三菱電機㈱から喧嘩を売られ続けていると解釈しています。
三菱電機㈱でも、「仕事に感情論を持ち込むな」と言われましたが、『優秀』な人は24時間、365日いつでもヒステリーをおこしていました。 おそらく本気で怒っていたわけではなくて、ヒステリーのふりをすることで周囲の人を誘導するような優秀さを発揮していたのでしょう。
三菱電機㈱のことだからここに書いた事実を追求しても、「特定の個人が暴言を吐いただけで、会社に責任はない」と言い訳しそうです。 しかし、当時のコ電規則集には「上長の指示は会社の命令に相当する。逆らったら減俸処分にする。」とあったので、責任を取らなければならないのは会社本体です。
三菱電機㈱はTV番組『太陽にほえろ』などで、スピーカーを砂丘に埋めて直接音だけを測定するCMを20年間くらい流していました。 おそらくお金をケチっていたのでしょうが、無響室を作る金をケチったのか、無響室は作ったのにCM動画を作り変える金をケチったのかは未確認です。
三菱電機㈱で、ひどい目にあったのはwebmasterだけではありません。 ここ1年ほどで、三菱電機㈱が関係する2件のパワハラ報道がありましたが、氷山の一角です。 三菱電機㈱の管理職の多くが某宗教団体に加入しています。 時々、未加入でとても有能な人が課長に出世することがあるのですが、1年以内にノイローゼで辞める事件が頻発していました。 鎌倉地区だけでも、毎年1〜2回「こんどはどこそこの課長がノイローゼになって辞めたそうだ。イヒヒ。(聞いたママの表現)」という会話を耳にしました。 自分がつきまとい被害に会うまで、課長さんがノイローゼになる理由はわかりませんでした。
三菱電機㈱に努めている時、webmasterはガンになって入院しました。 異常に気づいて自発的に病院へ行った時期の6か月前に、会社が定期検診を実施していました。 後から確認したら、定期検診の血液検査で腫瘍マーカーの異常値が出ていたのですが、会社は教えてくれませんでした。 そもそもガンの発生原因も、この時住んでいた借家で電磁波に被曝していたのかもしれません。
1990年代前半、三菱電機㈱で開発していた時のことです。 上司高畑CSに「他課のプロジェクトが納品一ヶ月前なのに、システムのバグが取れない。 手伝ってくれ。」と言われて、デバッグを手伝いました。 「起動後5分以内に必ず落ちる」との情報から、設定ファイル読み込み部分のバグを疑ったところ、当たりでメモリ割り当て前のポインタに書き込んでいました。 午前中にデバッグして、午後に簡単なテストをして報告書をまとめて、残りの総合試験は本来の部所に任せました。 報告書を提出した時の上司高畑CSとの会話です。
1か月後、このシステムは千葉県の新日鉄君津製鉄所に納品されて、納品2週間後に止まったそうです。 機械の中で溶けた鉄が冷えて固まって、会社は数千万円の賠償金を払ったと聞きました。 その時の上司との会話です。
高畑CSは、「シェークスピアのマクベスみたいに楽観的になってしまった。」という言い訳を用意していたのでしょう。 でも普段からwebmasterに「お前の言うことなんか、みんなとっくに考えているんだ。」と言っていたので、システムが止まることは想定内だったはずです。 おそらく、システムが止まることでライバル管理職が信用を失うことを期待していたのでしょう。 そういう会社でした。
1990年頃、工場建屋内で異様な光景を目にしました。 当時、webmasterは鎌倉地区でFA関係のプロジェクトの一員でしたが、黒田CSの都合で社内失業状態、雑用係をやっていました。 鎌倉地区の建物は、大きく2つに分かれます。 普段人がデスクに向かって開発をしている安っぽいオフィスビルみたいな建物と、コンピューター機器を収めたラックが並んでいて、床はコンクリート打ちっぱなしの平屋の工場です。 担当プロジェクトのコンピューターを操作にでかけたところ、工場内にすのこを並べてオフィス用のデスクがひとつだけ置いてありました。 座っている人物の年齢、服装、物腰、デスクの上の書類などから、部長職級の人物に見えました。 一日に数回、秘書のような女性が書類を持ってきたり、運び去ったりしていました。 デスクの目の前にあった開発中のシステム(空港で使うチケット改札)が当時日経コンピュータ誌の『動かないシステム』に取り上げられたのと、孤立したデスクが関係していたのかもしれません。
1995年、阪神大震災直後の話です。 神戸地区は地震の直撃で大打撃を受けました。 社内ネットは早く復旧しましたが、社外とuucp接続していたjunetは社内も神戸地区の接続先も大混乱で担当者は復旧に苦労していました。 この状況で、現場に追い打ちをかけたのが本社の社員です。 社内ネットに流れていた復旧状況報告に対して、「会社の被害状況が外部にバレると株価が下がる。株価が下がると会社の業績も下がるから、情報を流すな!」とか言っていました。 Webmasterが、「なぜ株価と会社の業績が連動するのか?近いうちに増資の予定でもあるのか?製造業はものを売ってナンボだと上司も言っている。会社定款を読みなおしてみたら?」と質問したところ、返答はありませんでした。
1996年頃、神戸地区での話です。 阪神大震災で取り壊したビルの跡地には、プレハブ作りのオフィス兼工場の平屋がならんでいました。 大きさはそれぞれ数十m四方です。 某部長は、「ビルの代わりにプレハブにしたおかげで、年間いくらの固定資産税が節約できた。 当分このままで行く。」と言っていました。 Webmasterの立場から見ると、断熱性の悪いプレハブの冷暖房のために屋根の上にエアコンの室外機が隙間なく並んでいて、100台を超えるエアコンが全開稼働する電力消費があるので、黒字か赤字か判別できません。
昨日9月27日から、入社1年目にパワハラにあって自殺した社員の裁判について報道されています。 三菱電機㈱の優秀な管理職黒田CSに教わったのですが、「悪いことをして反省しない相手には、弱っているところを集中して攻撃してトドメを刺せ」ということでしたので、トドメになるかどうかわかりませんが暴露を続けます。
もともと三菱電機㈱の前身は、財閥系です。 同じ三菱財閥で格上だった三菱自動車でさえあの体たらくですから、三菱電機㈱の内情は推して知るべしです。 ホコリを叩きだすと何も残らない会社の一つです。 万年赤字のせいで『三菱グループのお荷物』と言われた電機メーカーなのに、いつの間にか黒字化に成功しています。 赤字部門を次々と子会社化して、本体は持株会社並に小さくなったのは知っていますが、それだけでは連結決算で赤字になるはずです。 子会社でリストラを進めたのでしょうか。 もっとも、今年は中国経済が失速したせいで赤字になるかもしれないとも言っています。中国で売っているのは、彼らが主張するエレベーターだけでしょうか? なんせ、国防も原発もやっている会社ですから。
頻繁に上海出張するEVTD㈱社長から聞いた話です。 その社長が上海出張したある日、定宿が満室で別のホテルに泊まったらたまたま三菱電機㈱の定宿だったそうです。 ロビーには、昼間から複数の派手な装いのお姉さんがうろつき、日本人に積極的に日本語で誘いをかけてきたそうです。 いわゆるハニートラップですね。 売買春の取り締まりが厳しい中国でそんなお姉さんについていくと、美人局のように警察が乗り込んできて、「放免してやるからスパイになれ」と言われます。 常識人なら引っかからないでしょうが、三菱電機㈱で出世の早い人たちは、ハニートラップに積極的に引っかかりそうな感じでした。
Webmasterの個人的な想像ですが、米国が主力戦闘機F-22を日本に売ってくれなかったのは、日本の国防機密の守り方がザルだったからではないでしょうか。 現役自衛官がWinnyでイージス艦の秘密を公開していたそうですし、詳細は書けませんが三菱電機㈱内でもいろいろありました。 日本初のスパイ衛星を打ち上げた時、軌道の情報を全世界に公開していた事件もありましたね。 鎌倉地区でも大船地区でも、会社の敷地上空へ2機編隊のF-18が飛来して、方向を変えて飛び去るのをよく見かけました。 横須賀に入港した空母から厚木基地へ向かっていたのでしょうが、一直線に向かわずにわざわざ三菱電機㈱の敷地を目標に飛んできていることに、目的意識を感じていました。
三菱電機㈱を退職して5年ほど経過した頃でしょうか。 Webmasterが常駐することになった大手SIerが、下請けにMDIT(三菱電機インフォメーションテクノロジー㈱)を使っていました。 三菱電機㈱在職時に同僚だった人と職場で再会しました。 MDIT社員は国策プロジェクトばかり扱っていた時の癖が抜けず、ビジネスマナーが身についていません。 仕事の見積もり金額は安めなのですがアウトプットの品質が悪いので、SIerの間で『M社クオリティー』と揶揄されていました。
『M社クォリティー』がニュースで報道されたこともあります。 2015年11月30日に運用開始した山手線新型車両がブレーキトラブルで導入延期になった原因を作ったのは、OSを担当した三菱電機㈱です。 社外から調達した液晶パネルをドアの上に埋め込む位でやめておけばよかったのに。
パワハラ自殺裁判で亡くなった元社員が購入していた参考書を、ニュースで見ました。 CUDAとFortranの参考書が並んでいました。 Webmasterの想像になりますが、CUDAとFortranを同時に勉強しなければならないとすると、20年位前のスーパーコンピューター向けにVECTOR化FORTRANで記述された科学技術プログラムを、GPGPUで処理できるように移植するプロジェクトだったのではないでしょうか。 報道では「先輩が何も教えてくれなかった」と言っていて『先輩が知っていて隠していた情報があった』というニュアンスを感じます。 Webmasterは、『先輩も担当職務について無知だったため、何も教えることができずごまかしていた』と想像しています。 なぜならば、三菱電機㈱の経済観念は関所の西の文化が色濃く、「今すぐ銭を稼げないような仕事に給料は払わない」という方針だからです。 Webmasterが在籍していた時も、コンピュータ製作所の部長が「研究所は利益を産まない」と強弁して研究所を製作所の下請けに使っていました。 おかげで、利益を産むのが5年以上先になりそうな分野は、全く扱っていません。 ローリスクローリターンで、柳の下の2匹目以降のどじょうだけを狙っています。 時代遅れ扱いされているFORTRANも、過去三菱電機㈱に利益をもたらしたことのないGPGPUも、三菱電機㈱のエンジニアが勉強しているわけがありません。 おそらく、ニッチマーケット狙いで小規模なプロジェクトを立ち上げて、誰も知識の持ち合わせがない現場から「援軍をよこせ」と言われていたのでしょう。 三菱電機㈱の人事や経営者ならば、「新卒を送り込めば若い人の柔軟な発想でなんとかしてくれるに違いない」と言いそうです。
亡くなった元社員にお悔やみ申し上げます。
つづく
ここ2、3日、実家に届く電磁波が強めです。 ガスファンヒーターの制御マイコンなど複数のマイコンが誤動作しています。 耳鳴りも止まりません。 Webmasterの母は、難聴の症状が極度に悪化しました。 感謝デーのキャンペーンとして、今日は2社分同時に暴露記事を追加します。
1991年に美浜原発で細管破断事故が起きたと報道されました。 後の報道で、「事故原因は検査で分解した配管を再組み立てした時の誤り」と言われています。 この事故時、緊急停止のプログラムが動作して、原発は止まっています。 この緊急停止機能を含むプログラムを書いた斎藤さんと、webmasterは三菱電機㈱で一緒に仕事したことがあります。
斎藤さんは、実直な性格できっちりと成果を出す職人気質の人です。 平均して半年にひとつのシステムを、設計、実装、試験して送り出していましたが、全工程を丁寧に仕上げて大きなミスはひとつもしていません。 ろくなエンジニアのいない三菱電機㈱では、斎藤さんは千人に一人の逸材です。 ところがなぜか、斎藤さんはいつまでも平社員なのです。 大して仕事の出来無い元部下が何人も追い越して管理職になるのに、斎藤さんはいつまでも現場で開発しています。
実力のある人がいつまでも安月給で現場に置かれるケースは、IT業界の別の会社でも頻繁に見ました。 1990年代にWebmasterと同僚だった加賀屋さんとは、2000年代にSIerの常駐作業でMDITの課長として再会しました。 加賀屋さんも斎藤さんの元部下で、「斎藤さんは今でも平社員で、自分の方が上司になった」と言っていました。
2017年11月現在山手線の新型車両に乗車すると、三菱電機㈱がエレベーターに追加した新機能の説明動画を見ることができます。 複数台あるエレベーターを、乗車する人の目的階別に分けて運行して効率化しているつもりのようです。 Webmasterが気になったのは、エレベーター制御機能を擬人化した人物が説明動画で着ているコスチュームです。 森高千里のアルバム『非実力派宣言』のジャケット写真を思い出すのですが、もしかしてこのエレベーターの実力を知っている広告代理店からの間接的なメッセージなのでしょうか?
電磁波がまた強くなりました。 健康被害も高めです。 ノートパソコンのキーボードやタッチパッドが誤動作しています。 メディアプレイヤーが起動しません。 またまた挑発に乗ります。
1990年代前半のことです。 優秀と評価されていた黒田CSは、ある朝突然同期のデスクへ行って、一日中「あの田園調布に家をお建てになったそうですね。」と嫌味を言い続けていました。 黒田CSによれば、エンジニア一人の1時間あたり7000円会社が出費しているので、嫌味を言い続けることで7000円✕8時間✕2人の102000円会社に利益が入っているはずです。 回収方法は不明です。
三菱電機㈱では、自宅を購入すると転勤することが決まっていまいした。 関東で家を購入して関西へ、関西で購入して関東へ転勤になった社員を何十人も見ました。
ネットで興味深い記事を見かけました。
「優秀社員」の法則~デキる人は腹黒い? 評価決める「会社のローカルルール」とはこの記事では、『優秀』な人はローカルルールで高評価な人で、『デキる』人は腹黒いと主張しています。 三菱電機㈱では高評価の条件の一つが『腹黒いこと』なので、『優秀』な人と『デキる』人は同じです。 IT業界では、「『優秀』だから真似しろ」と言われる経営者や管理職はみんな腹黒くて人間の屑です。 三菱電機㈱に就職するとき、スーツの襟につけるダイキャスト製のバッジを借り受けました。 偉い人が「このダイヤモンドバッジをつける覚悟があるか」と聞いてきたので、「真面目に仕事する気はあるか?」という意味だと解釈したwebmasterは迷わず「はい」と答えました。 今考えると、「上司が会社の金を横領して偉い人に差し出すとき手伝ってみせろ」という意味だったのですね。
12月になったら、山手線車両内に非実力派宣言の動画広告が流れなくなりました。 他の動画は流れています。 三菱電機㈱の広告動画のシリーズは、最後に「ニクイねえ三菱電機」とセリフが入ります。 おそらく、パワハラで自殺した元社員の遺族に対して挑発しているのでしょう。 そういう会社です。
今日は、阪神大震災から数えて23年目だそうです。 最初に阪神大震災で亡くなった方のご冥福を祈ります。 続けて、阪神大震災を自社の儲けに利用したガメツイ会社の話を書きます。
阪神大震災から1ヶ月後くらいに、社内に流れたuucpニュース投稿を見てwebmasterは驚きました。 大震災当日に倒壊した家に閉じ込められて24時間後に救出された社員の体験談でした。 なんと大震災当日に神戸地区に出社した部長が、全部下に電話をかけたそうです。 電話に出ることができた社員全員には、「もしも明日以降休むようだったら、無断欠勤としてクビにする。」と脅したそうです。 東京本社の社長は業界新聞に『震災復興に協力した会社』として提灯記事を書いてもらっていましたし、神戸地区は「阪神大震災でも全てのプロジェクトの納期を守った製作所」を自慢にしていました。 マスコミに流れる美談の裏には、泣いている正社員が何百人もいるわけです。
本日のYahooトップを見ると、三菱電機㈱が「新技術を開発した」という複数種類のアピールをしています。 さらに反省を促すために、暴露を続けます。
1995年頃の話です。 三菱電機㈱が1ヶ月間の営業停止処分になったことがありました。 営業停止の1週間前に総務から通知が来て、「1ヶ月間の営業停止になったので、その間業務時間中に他社の社員と会話をしてはいけない。」とのことでした。 現場はパニックです。 現場には他社から来ている常駐社員が大勢いる上に、なぜかだれも報道で営業停止の話を聞いていなかったので、「常駐社員をどうすればいいのか?」と総務に質問しました。 すると総務から「現場のことは現場で対処してください。」という返答が返ったきりです。 結局、営業停止期間も指示を無視して常駐社員と普通に会話していました。 現場では「三菱電機㈱ではIBMスパイ事件の責任者が取締役の椅子に座り続けているのだから、この位の違法行為は大したこと無い。」というのが合言葉になっていました。
本日のYahooトップを見ると、こんなリンクがありました。
部下の活躍は許さない!幼稚なマウンティング上司への対処法三菱電機㈱の基本方針(マネージャーはマウンティングに終止すべし)にダメ出しされていますけど、放っときますか?
最近山手線の車内で三菱電機㈱の動画広告を見かけなくなったのですが、東横線で流れていました。 「管理職のエゴがくっキリン、社員の秘密プライバシーをみやブルドッグ、違法行為で収入をまモルモット」でしたっけ?
1990年代前半のことだったと思います。 突然、webmasterの所属する情報電子研究所総務から「海外出張時に自動車で移動するな」という通達がでて職場がパニックになったことがあります。 海外出張するような人には常識ですが、外国では『移動時に自動車を使用しないと危険な地域』はいくらでもあります。 この非常識な通達のせいで、予定されていた出張のいくつかが中止になりました。
1ヶ月ほどして、webmasterの書類受けに通達の書類が回覧されてきました。 書類は3枚綴になっています。 1枚目は、研究所総務が書いたもので、「本社総務から通達があったので、海外出張時に自動車での移動を禁止する」とありました。 2枚目は、1枚目の根拠となった本社総務からの通達で「本社危機管理部からの通達で、海外出張時に自動車での移動を禁止する」とありました。 3枚目は、2枚目の根拠となった危機管理部からの通達で「海外でテロなどが発生している昨今、海外出張は危険をともなう。会社には『エアコン設置のために海外で移動する時は自分で自動車を運転しないように』などの規則があるので、必ず従うように」とありました。
『エアコン設置』とか『自分で運転』とかいう制限があったのに、通達が回ってくるうちにいつの間にか「海外出張時には絶対に自動車で移動するな」という指示に化けてしまっていました。 伝言ゲームを実行した本社総務、研究所総務も見事でしたが、全員に回覧されている3枚綴の書類を、webmaster以外だれも確認していなかったのも三菱電機㈱らしい対応でした。
2018年3月現在、財務省が書類を改ざんした件でマスコミは大騒ぎです。 三菱電機㈱も書類とその改ざんが大好きです。 課内で打ち合わせするにも書類を用意して、出席者、日時、場所を決めて係長と課長の判子をもらわなければなりません。 ところが、判子を押す書類を書き換え可能な鉛筆で書くのです。 初めてその習慣を知った時webmasterは、「書き換え可能な書類に判子を押すのはおかしいのではないですか?」と上司に質問しました。 上司は、「判子を押した後で書き換えが発生するのは日常茶飯事だから、ボールペンで書いてはいけない」と言っていました。 書類に判子をもらう意味が無いような気がしています。
1990年代前半のことだと思います。 社長の「我社にもウォークマンのように画期的な世界初の商品が欲しい」という鶴の一声で、アイディアコンペが始まりました。 Webmasterも手持ちのアイディアの中から世界初になるものを一つ提出しました。 そのアイディアが、課内調整、部内調整を通って、取締役会まで行ったそうです。 結果は、「こんな商品前例がない」とのことで没になりました。 世界初の企画に前例が必要とは、取締役だけあって発想が斜め上を行っています。 でも、他場所でこの話をしたところ「そんなコンペなかったよ」とのことなので、課長か部長あたりが嘘をついてアイディアを集めて、どこかのシンクタンクに売り込んだのかもしれません。
1990年代前半のことだと思います。 Webmasterは大船地区で仕事をして、当時のクライアントがいる神戸地区にときどき出張していました。 ある日の出張に、同じ部の人間が10人以上ついてきました。 距離を保ちながらこちらを監視し、神戸地区でも仕事するわけでなく、交通機関の移動でもついてきました。 リーダーは、隣の課の臼井GRでした。
三菱電機㈱はとにかくケチで、最新技術の情報を仕入れるのに苦労していました。 データショーなど業界の見本市への出張は上司に禁止されましたし、必要な参考資料も自腹で買わされます。 そんなわけで出張作業が終わった後、webmasterはIT業界に関わる高校の同窓生に新大阪駅で会って情報を仕入れました。 その場にもつきまとい社員がいて同窓生も目撃しましたが、彼らが社員かどうかは同窓生には判別つきません。
次の出張からは、つきまとい担当が社員ではなく目つきの悪い中高年男女になりました。 パチンコ屋で全財産をすってしまって、休憩室でタバコをふかしているような外見の人達です。 すぐにwebmasterのプライベートでもつきまとうようになり、大船地区の会議室を待機所として用意してもらっていました。
1990年に三菱電機㈱に入社した直後の話です。 通勤にJR大船駅を利用していたのですが、コンコースを歩いているとすれ違いざまに肩でぶつかってくる人がよくいます。 会社でその話をしたら、「それが大船地区の挨拶だ。そんなこともきかないとわからないのか?」という意味のことを関西弁で言われました。 協調性のあるwebmasterは、さっそく大船地区の挨拶方式を採用しましたが、挨拶された側に睨まれることがよくありました。
1990年代前半のことだと記憶しています。 三菱電機㈱で給与制度の改定がありました。 「全社員が毎月20時間残業したとみなして残業代を支給する。 早く仕事を終わらせて、定時に帰っても問題ない。」という規則ができたと労組の月刊誌Melonに書いてありました。 ところが、運用は労組の説明と異なります。 早く仕事を終わらせて定時で帰る人は、ボーナスが大幅に減額されました。 Webmasterが課長渡邉GRからの急な指示で40時間以上残業したら、「40時間以上の残業は事前申請しないと残業代が支給されないから、残業時間を0時間として申告せよ」と渡邉GRに言われました。 結局大損です。 要領の良い一般社員は、毎月20時間づつ残業して給与水準を保っていたようです。 結局この制度は1年間だけ運用されて廃止されました。
1990年代前半のことです。 Webmasterは大船地区に新設された部所システム開発部に配属されました。 部全体が神戸地区の予算で下請け仕事をしています。 同じ部のS開1グループには、暗号の研究をしていて社外でも有名なO氏(岡本だか岡村だかいう名字だった)がいました。 O氏も、初対面の人間に喧嘩を売るサイコパスです。 O氏は「暗号王に俺はなる!」と言って、神戸地区スポンサーの意向を無視して暗号の研究を続けていました。 「金が全て」という価値観の三菱電機㈱内では、破格の待遇です。 「仕事が大変だから、女性の助手をつけろ」と要求して、二人分の給与を無駄遣いしていました。 やたらエンジニアに厳しい三菱電機㈱の管理職なのに、臼井GRがO氏にだけ甘くするのが納得行かなかったwebmasterは、O氏の氏名を伏せて「隣の課にスポンサーの仕事をしていない人物がいる」とネットニュースにバラしました。 翌日に、S開1グループの名簿を手にした神戸地区部長から内線電話があり、となりの課の全エンジニアの担当業務を根掘り葉掘り聞いていました。 その電話に正直に答えたS開1のエンジニアが、あとでS開1の臼井GRに大目玉をくらったのは言うまでもありません。
三菱電機㈱に入社して、1週間経たないうちに上司に言われたセリフを覚えています。 「三菱電機の社員はみんな口先ばっかりで、行動が伴わない」 確かにその通りで、そう言った上司黒田CS本人も口先だけでした。 実例をあげます。
三菱電機㈱でシェルスクリプトのプログラムを書いたことがあります。 処理内容がシンプルだったのと、MC68020のSystem VとPA-RISCのHP-UX両方で動作させる必要があったからです。 この時上司に「俺はネイティブコンパイラ言語以外はプログラミング言語として認めない」と言われました。 その上司は、数年後にSun JavaのVer1.2を自慢気に社内に勧めていました。
三菱電機㈱は製作所と研究所の仲が悪く、お互いに非難の応酬をしていました。 当時製作所にいた黒田CSは、「研究所とはPH.Dクラスの論文を沢山書くところでなければならない」と言っていました。 その後、黒田CSは研究所に配属されましたが、彼の部下からはやはりPH.Dクラスの論文は出てきません。 黒田氏自身が一人だけプライベートで論文を書いて、社外どこかの研究所に移籍したようです。
自分でC言語のパーサーを書いてみればわかりますが、"typedef"キーワード一つがあるせいで、C言語のパーサーは複雑になります。 これ文脈自由文法ではないですよね。
1990年代前半のことだったと思います。 Webmasterは、三菱電機㈱の下級平社員から上級平社員に昇進するための研修を受けました。
座学に先立って「会社の問題点と思われるものをレポートに書いて事前に提出しろ」という課題が与えられました。 Webmasterは「三菱電機㈱は、神戸地区が他社から受注した仕事を鎌倉地区に丸投げし、鎌倉地区は大船地区に丸投げしている。 見方によっては、一つの仕事で3箇所を養っているようにも見えるが、利益率は落ちる。」と書きました。
座学の当日に人事が挨拶しました。 「我社は競合他社と比べて、利益率が極端に悪い。 その理由を考えてくれ。」 とのことで、webmasterのレポートを読んでいないのがモロバレです。
座学では、偉い人の自慢話を聞かされた後、数人ごとのグループに分かれて、「会社の問題点と解決策を考えて発表する」という課題が与えられました。 Webmasterのグループも、「問題点の洗い出し、解決策の考案、行動計画の立案、残された課題のリストアップ、結論」を発表しました。 発表を聞いていた人事の感想は、「残された課題についても解決策を考えてほしかった」とのことでした。 Webmasterが「解決策を考えつけなかったものが課題として残されたのです」と説明しましたが、人事には理解できないようでした。 さすが、大企業の人事は発想からして違います。
2018年9月2日に届くと告知されていた知人からの連絡が来なかったので、お礼に暴露をします。
1990年代前半に、三菱電機㈱も富士通を真似して成果主義の人事システムを導入しました。 社内で、「仕事で成果をだせば給与が上がる素晴らしいシステムだ」と手放しで喜んでいる人が多かったので、webmasterはuucpニュースで以下の指摘をしました。
25年以上前のことなので、これ以上は思い出せません。 Webmasterの予想通り、成果主義は評判が悪く数年で骨抜きになりました。
1990年代前半のことです。 Webmasterがいる課の課長加藤GRは押しが弱く、事業部内で20年以上前に設計したシステムのドキュメントを押し付けられていました。 同時に三菱電機㈱は「ドキュメント廃棄」の圧力が強く、毎年ドキュメント廃棄のキャンペーンを行っていました。 ある年、「課内に保存されているドキュメントを全社で半分づつに減らせ」というお達しが出ました。 素直に従うと、稼働中の原子力発電所やプラントのシステムドキュメントも廃棄しなければなりません。 総務にお目溢しを掛け合ってもムダでした。 結局、将来必要になりそうなドキュメントを多数廃棄処分にしました。
半年後、早くも廃棄したドキュメントが必要になりました。 古いシステムのメンテを依頼された部署から「ドキュメントを渡せ」と言ってきましたが、無いものは渡せません。
大企業なんて、こんな笑えないコントを一年中やるところです。
1995年ころのことです。 「エンジニアたるもの自由時間にも自己啓発の活動をしなければならない」というお達しが会社から出て、「業務時間外に自己啓発活動をすることとその報告」が義務付けられました。 明らかな労働基準法違反です。
Webmasterは、自己啓発活動として「博士号取得のための研究」を選択し、研究活動を始めました。 Linuxを走らせるために当時数十万円したパソコンを買いました。 NTTに務める世間知らずな社員には、「パソコンなんて1ヶ月の給与から生活費をぬいた残りで買える」などと脳天気なコメントをもらいました。 三菱電機㈱の社員は、NTT社員みたいな高給取りではありません。
数年間に渡って毎日1時間以上研究活動を行ったので、三菱電機㈱の計算で2000万円以上のチャージが発生しています。
1999年10月29日に研究成果を発表するため、情報処理学会のプログラミング研究会第26回発表会に出席しました。 プログラミング研究会のホームページには当時、「優れたアイディアを求めます。性能よりもオリジナリティを重視します」と書いてありました。 実際に発表したところ、東大の助手に「性能が悪い」と野次を飛ばされました。 論文の査読者もその東大助手だったので、論文誌に採用されませんでした。
発表から帰ってきたところ、上司に「研究をやめろ」と指示されました。 「会社の指示で始めたことなのに、結果が出そうなところでやめろとはどういうことですか?2000万円を超えるチャージを会社が負担してくれますか?」と質問したところ、「そんな金払えん」と言われました。
朝日新聞のサイトで見つけました。
残業5倍…過労自殺の再発防げず 三菱電機氷山の一角です。
1990年のことです。 Webmasterは、三菱電機㈱に入社直後でエキスパートシステムの作成をチームで担当していました。 GUI部分を、webmasterがリーダーとなるチームでMotifを使って作成し、AIチームがエキスパートシステムコアのチューニングを担当するはずでした。 GUIチームとAIチームで作業分担を話し合っていた打ち合わせでのことです。 AIチームのリーダーが、「三菱電機㈱のエンジニアは外注じゃないからプログラムなんか組まないんだ!!お前は俺を外注扱いする気か?」と突然怒り出しました。
彼は、経験も実績もやる気もなく、ICOTに出向していた人でした。 実力もないのにICOTのフリーな雰囲気に感化されて、『意識だけ高い系』になっていました。 ソニー㈱と違って三菱電機㈱のエンジニアは自分の実力をわきまえています。 しかも、高慢ちきな管理職に怒鳴られ慣れているので、みなさん卑屈です。 その中で一人だけプライド高く『意識だけ高い系』として目立っていました。 「そんなに言うなら、俺の担当部分をお前が作ってみせろ」とも言いました。
Webmasterの経験上、こういう口のきき方をする人物は、まったくアウトプットを出しません。 彼の担当部分を引き受けて二人分の仕事をしても、webmasterのフルパワーの1/3位の分量です。 言われたとおり彼から仕事を取り上げて、二人分の作業を進めるつもりで準備しました。 結局、課長が邪魔して、このプロジェクトは頓挫しました。
1990年のことです。 職場の隣の課に、unixを学んできたという1年目の新人が10人位配属されました。 この中に、二人クラッカーがいました。
新人の中に挙動のおかしい人物がいることに気づいたwebmasterは、自分が使っているワークステーションにハニーポットを用意しました。 ユーザー名guestのパスワードをわざとguestにして、挙動を見張りました。 ランダムデータを512kBほど並べて重要に見えるよう工夫し、guestアカウントがアクセスできるところに配置しました。
予想通り、新人の中の二人が虱潰しアタックをかけてきて、guestアカウントに入りました。 ランダムデータも持っていきました。
以上のログをとっておいて黒田CSに報告しましたが、「そんなはずないだろう」で片付けられました。 この事件がその2以降に続きます。
1990年のことです。 二つの課が共用で使っているサーバーがありました。 Webmasterがサーバーに保存していたソースコードが、頻繁に消えたり書き換えられたりしています。 クラッカーの存在を疑って、トラップを仕掛けました。 Webmasterのディレクトリでrmコマンドを実行すると、自爆するコマンドです。 環境変数PATHの先頭にカレントディレクトリを指定するような素人にしか通用しませんが、ruidをチェックして自分が引っかからないようにしました。
トラップを仕掛けた翌日に、ログを調べようとしたらサーバーにログインできません。 どうやら、人間がファイルを壊していたのではなく、サーバー管理者がファイルシステムを壊していたようです。 スーパーブロックのサイズ計算を間違えたのでしょう。 ワークステーションにメモリを増設した時にSWAPサイズを増やすのを忘れてトラブルになるような人たちでしたから、無理もありません。
1990年のことです。 三菱電機㈱は、Hewlett Packard社のunixであるHP-UXのソースコードを見せてもらっていました。 ソースコードは厳重に管理され、webmasterを含めて名簿に載っている人物だけが見せてもらえる契約でした。 その1でハニーポットに引っかかったクラッカー二名は、名簿に載っていなくてソースコードを見たくて仕方ありませんでした。
ソースコードを保管しているマシンの管理者が米国へ長期出張に出かけ、webmasterが一時的に管理者代理を引き受けたときのことです。 クラッカー二名がwebmasterの所にやってきて言いました。 「ネットワークを使うアプリケーションをデバッグしたいが、通信相手のマシンがない。ソースコード管理用マシンが空いているようなので使わせてくれ。」
彼らの目論見はミエミエだったので、webmasterは彼らの上司の所に行って彼らにも聴こえるように言いました。 「二人がソースコード管理マシンを使いたいと言っている。 HP社のソースコードが保管してあるマシンなので、通信実験をする間はソースコードの入ったボリュームをアンマウントしなければならない。 わざわざそんなことをするよりも、もう一台手配したほうが早くないか?」
二人はがっかりして引き下がりました。 黒田CSが米国ゴルフ出張(部下が仕事している間に彼だけゴルフして遊んでいた)から真っ黒に日焼けして帰った時に報告しましたが、こんども本気にされませんでした。 この事件が、その4に続きます。
1991年のことです。 HP-UXのソースコード管理者が、再度米国へ長期出張しました。 管理者代理は、別人菅原Tになりました。
またしてもクラッカー二名が、管理者代理のところへ行って、「マシンを使わせてくれ」と頼みました。 今度の代理管理者菅原Tは、あっさり使用を認めました。
本来の管理者上浪Tが出張から帰国した後で、クラッカー二名がソースコードを読める状態にあったことが表面化し、問題になりました。 Webmasterは、てっきりこの事件でHewlett Packard社との提携が切れて、100億円を超える大規模プロジェクトがおじゃんになってHP社には賠償金を請求され、部長のクビが飛ぶのかとワクワクしていましたが、黒田CSがもみ消してHP社には報告しないでごまかしたようです。 三菱電機㈱のコンプライアンス意識がよくわかる事件でした。
ブラック企業大賞受賞おめでとうございます。 これも、ひとえに無理難題を暴力や暴言で現場に押し付けてきた皆さんの努力の賜物ですね。 日本の黒字電機産業の三菱電機と日立がならんでブラック企業として表彰されるのも、日本の経営者が黒字化のためになり振り構わずに指示を出している証拠でしょう。 ぜひ、日本の少子高齢化、不景気と格差の推進のため、邁進してください。 陰ながらお呪い申し上げます。
「意識だけ高い系」に言わせれば、「ブラック企業に入社したのも自分の選択、自殺するのも自己責任」ということになるのかもしれません。 Webmasterは「意識だけ高い系」の考え方には全く同意しませんが。
仮に自己責任論を持ち出すとしても、トラ技に嘘の技術論を掲載してしまうのはやりすぎでしょう。 落ち度のない全トラ技読者に迷惑をかけていることを自覚してください。
Webmasterは、2000年9月にこの企業で行われている横領を大船警察署に届けました。 応対に出た警察官小笠原桂一警部補は、「明日、担当者から連絡する」と言っていましたが、全く音沙汰ありません。 神奈川県警も、ブラック企業育成の協力をしています。
三菱電機㈱には労働組合がありますが、経営者の決定を一方的に組合員に伝えることしかしません。
1990年代前半に、組合誌melonで読んだことによると、「会社は過去最高の利益を出しているが、将来不景気になったときでもボーナスを出せるようにプールして、今年のボーナスは増額しない」だそうです。
数年して不景気になった時、組合誌melonで読んだことによると、「会社は減益だから今年のボーナスは減額する。」だそうです。 プールした金がどこに行ってしまったのか、誰も追求しませんでした。
1995年の阪神・淡路大震災から2か月ほど経過した頃の話です。 労組の担当者が職場で『阪神・淡路大震災被災者への寄付』を集めに来ました。 Webmasterは、「NHKを通してとっくに寄付した」と言ったのですが、「労組が全員に払ってもらうことになっている」とのことで、強制的に寄付金を取られました。 しかも、誰がいくら寄付したかリストまで作っています。
ところが、全部でいくら集まってどこに寄付したかの報告がありません。 三菱電機㈱のことだから「我社も被災者だ」とか言って神戸地区の復旧に全額使ったとしてもおかしくありません。
1995年頃の話です。 Webmasterのいる課では、エンジニアは前の前のプロジェクトで購入したHP-UXワークステーションで仕事をしていました。 全社的に課長にだけWindows95マシンが与えられ、課長もメールの読み書きを覚え始めました。 その頃の会話です。
1998年頃の話です。 当時、インターネットのIP接続が流行りだしてきたところでした。 社内は相変わらずJUNETのuucp接続どまりで、現場の「IP接続してほしい」という要請を情シスのネット担当に相当する子会社MINDが無視していました。 仕事で必要になるフリーソフトがインターネット経由でしか入手できないケースも多くあり、やむにやまれず課内の予算を調整してモデム経由でパソコンをIP接続している部署がチラホラとでてきました。
金の管理に厳しい会社がすることですから、当然もっとも安いパソコン部品を組み合わせて1台作ることになります。 当時最も安いEthernetインターフェースカードに問題がありました。 MACアドレスが、FlushROMだかEEPROMだか消去可能な領域に保存されていて、ちょっとしたはずみでオール0にリセットされてしまいます。 オール0のMACアドレスは物理層のブロードキャストアドレスなので、DHCPとか使おうとした途端にパケットストームの原因になって、LANセグメントを止めていました。
LANセグメントを止めた課は、MINDにお説教されて「二度としません」と始末書まで書かされます。 ところが、MINDはこの手のトラブルに箝口令をしくので、次から次へと同じトラブルが課を変えて繰り返されます。 MINDはトラブルを防ぐつもりは無かったようです。 トラブル対応することにより、親会社からお金が入っていたからでしょう。
1995年頃の話です。 Webmasterに特許のノルマが回ってきました。 手持ちのネタを一つ書いたら、課長渡邉GRからクレームがつきました。 「中田のアイデアはいつも荒唐無稽だ。 もっと、他社がやっている内容を特許に書け。」
『他社がやっていると公表している研究内容』は公知になるので、webmasterが知る限り特許として成立しません。 三菱電機㈱は、公知を特許として成立させる裏ルートを持っていたのかもしれません。
1991年頃の話です。 Webmasterは、社内で初めてUnix上のリアルタイム制御のシステムを実装しました。 当時、POSIXのスレッドライブラリは広まっていなくて、シングルコアのCPUでシングルスレッドのアプリケーション内部にタスクのディスパッチャを実装し、複数タスクの切り替え、同期、リソースの排他制御をしていました。
「社内にリアルタイム制御のノウハウを広めたい」という課長渡邉GRの指示で、webmasterは社内向けの解説書を数十ページ書きました。 書いた内容は、社内でシステムのデバッグ手伝いを通じて知った、社員がハマりそうな実装上の落とし穴についてです。
出来上がった解説書を読んだ渡邉GRは、「教科書に書いてあることと同じだ」とクレームをつけてきました。 実装時に教科書に書いてあることも注意できない社員が問題なのでは無いでしょうか。 Webmasterは指示通りの解説書を書いたつもりです。
1997年頃の話です。 Webmasterは、係長への昇進試験の準備をしていました。
最初に、A4 2ページ位の分量の業界分析レポートを書かされます。 課長渡邉GRに見せると、1日目に細かい表記を直されます。 2日目に段落の前後位置を入れ替えさせられます。 3日目に「やっぱりこの内容じゃ駄目だ」とダメ出しされ、一から書き直しになります。 そんなことを6回繰り返したら1ヶ月過ぎました。
きりがないので、前年に渡邉GRのもとで昇進に成功した先輩の技術レポートをパクってみました。 1年たっても内容が劣化していないのも確認済みです。
渡邉GRは前年にOKを出した論文にダメ出ししました。
さらに昇進のためには、社内英検を受験する必要があったのですが、渡邉GRが伝え忘れていたので、昇進できませんでした。 三菱電機㈱の課長なんてこの程度です。
1992年頃の話です。 システムを納品した客先から「動かないぞ、すぐ来い」とクレームが来て、集団で駆けつけたことがありました。 顧客はグループ企業の三菱自動車です。 駅から遠い場所に工場があったのでトヨタの自家用車で駆けつけたら、「三菱自動車の構内にトヨタ車で入構しようとするなんて非常識だ!」と守衛に怒鳴られました。
しかし、webmasterは知っています。 三菱自動車大船営業所が三菱電機大船地区に入り込んで自家用車のセールスをする時、試乗車のカーステレオが三菱電機製ではないことを。
別の日にマツダがセールスに来たときは、「うちが持ってくる試乗車は、ちゃんと三菱電機製のカーステレオを積んでいます」と自慢していました。
Yahooのトップリンクにこんなコラムを見つけました。
新入社員が覚えておきたい「理不尽な上司を社会的に殺す」ライフハックWebmasterは、三菱電機㈱にいた時に記事にあるライフハックを使ったことがあります。 課長の横領を部長や人事に報告したのですが、全社一丸となってwebmasterに嫌がらせしてきました。 日本の大企業なんて、こんなものです。
大抵の会社では、筆記用具などの消耗品はストックが用意してあって、社員は自由に持ち出せます。 ところが三菱電機㈱では、ボールペン、シャープペンシルの芯、消しゴム、ノートは消耗品扱いなのに、鉛筆やシャープペンシルの本体が消耗品扱いされていません。 必要なときは自腹で買わされます。 しかも、以前書いたように、係長がハンコを押す書類は後で書き直せるように鉛筆かシャープペンシルで書くように指示されています。 必須の筆記用具を自腹で買わされるのが、三菱電機㈱です。
1999年のことです。 SONYがAIBOを発売し、1台25万円のAIBO3000台が短時間で売り切れました。 そのニュースを聞いた課長たちが羨ましがりました。 「7億5000万円が短時間で売り切れたんだよ。」
SONYは、AIBO開発のために、数年かけました。 発売するまでは、当然赤字です。 発売しても、開発費のもとをとるには3000台程度の売上では足りません。 Webmasterが考えることは、三菱電機の課長は先回りして考えているそうですから、赤字なのはわかっていて羨ましがっているのです。
三菱電機は金の亡者ですから、赤字が数年見込まれるプロジェクトを新規に立ち上げるなんて許されません。 その割には、慢性的に赤字のプロジェクトを山ほど抱えてもいます。 Webmasterにはどこが羨ましいのかよくわかりませんでした。
2000年ころのことです。 三菱電機㈱の社長は自民党に、「我が国もスパイ衛星を持つべきだ」とかねてから営業していました。 スパイ衛星第1号の受注が決まったのとほぼ同時に、人工衛星を開発しているNECと東芝がチョンボしてその分の代替発注も三菱電機㈱に回ってきました。 普段なら年1台も作ればすむ人工衛星のバックオーダーを、一度に9台分抱えてしまいました。
あわてて生産設備の増強を始めましたが、完全な泥縄です。 また、人材の確保、育成をしていないので、設備だけ増やしても生産効率は上がりません。 2019年の現在、当時泥縄増強した施設は遊休施設に変わっているだろうことは想像に難くありません。
1990年のことです。 三菱電機㈱に入社したwebmasterには、だれも仕事を教えてくれませんでした。 「うちはOJTだから」と格好のいいことを言っていましたが、「自分の仕事のスポンサーは誰か」「社内で自分の課の立ち位置は」「必須のゴールとオプションのゴール」など課内でだれも把握しておらず、質問しても答えられる人はいませんでした。
東証一部上場の大企業なんて、こんなものです。
1990年のことです。 Webmasterはそれまで8年間の業界経験から、「システム開発をする会社はセキュリティのため社員のいる出入り口のみを使う。無人の出入り口は施錠して非常時以外使わない。」と教わっていました。 三菱電機㈱に入ったときも業界の常識を踏襲していたのですが、怒られました。 「社員のいる出入り口は、お客様専用だ。 社員が出入りするときは無人の出入り口を使え。 そんな常識も知らないのか。」 だそうです。 会社の常識が世間の常識と違うなんて、教わらなければわかりません。
1990年のことです。 三菱電機㈱の鎌倉製作所は、建前上は守衛所の前を通らないと入構できないことになっていました。 でも、一方の入り口は守衛の前を通らずに駐車場に入れてしまいます。 実際には、社員にも顧客にも守衛の後を通って出入りする人がいました。
1990年のことです。 守衛所を通らずに駐車場に回り込める道は、人や車のためのものではなく、水を通すものでした。 部長曰く「会社の機材が水没しないように、大雨の際は駐車場が遊水地になる一石二鳥の設計なんだ」そうです。 Webmasterには、会社の機材を守るために、社員や顧客の自動車を犠牲にするシステムに見えました。 大雨が降ると、社員は職場を放棄して駐車場の車を移動していましたし、駐車場の水がはけるまで数日間は、敷地内の通路が駐車場代わりになっていました。
1990年のことです。 Webmasterが書いた報告書について、新人が質問してきました。
Yahooのトップリンクにこんな記事を見つけました。 三菱電機 CTO 藤田正弘氏が「一人称で考えろ」と言い続ける理由 机上の空論の綺麗事をこれでもかと並べています。 私の上司にこんな人がいたら、今でも三菱電機で働いていたことでしょう。 きっとCTOは仮の肩書で、広報担当者だと思います。
この人が「社内でこんなことをしている」という例は全部、「やってはいけない」とwebmasterが三菱電機の現場で言われた具体例です。
1990年のことです。 入社したWebmasterの上司は、社内でも『優秀』として有名な係長黒田CSでした。 でも、webmasterにはどこが優秀なのかわかりません。
口は悪くてすぐに暴言を吐き、部下を脅迫し、上司に嫌味を言い、他人の手柄は横取りし、技術論でウソをばらまき、マウンティングに終止し、他の課で聞いてきた話を自分の成果のように言います。
「今年のゴールデンウィークがあけて出社したら全部下を取り上げられていたので、人事に恨みがあって全社員に復讐しているんだ」と言っていました。
他の人に聞いたら、全部下がそろって「こんな性格悪い上司の下では仕事できない」と言って集団で辞表を書いたのをなだめすかして異動したそうです。 三菱電機㈱で『優秀』と言われる人は、こんな人たちです。 万年赤字のブラック企業になって当たり前ですね。
この優秀な人は、CRLnewsNo.314によれば無線通信部門 横須賀無線通信研究センター ワイヤレスアプリケーショングループリーダーをやっているそうです。 NICT NEWSにも出ていますね。 あれ?経歴に「携帯電話向けJava標準化活動」とか書いてある。 「俺は、ネイティブコンパイラ以外はプログラミング言語として認めん」と言っていたくせに。 経歴のUnixOS開発って、HP-UXの三菱電機向けローカライゼーションのことかな?
独特な言動のため、三菱電機㈱の1990年入社の社員からは『ミスターK』とバカにされていました。 「情報処理学会の委員になれたのは、横領した金を学会で配ったからだ」とも言われていました。
1991年のことです。 プロジェクトが一段落して、部長渡辺Bが全部下と個人面談することになりました。 Webmasterとは初対面だったのですが、自己紹介する前から渡辺Bは喧嘩腰のサイコパスでした。 三菱電機㈱では、役職が上がった人ほど病んでいます。
1990年入社直後のことです。 上司の黒田CSに「コ電にはコ電規則集という文書があって、これを読めば仕事の仕方がわかる。読んでこい。」と言われて資料室で読んでみました。
ダメな文書の見本でした。 ローカルな職場でしか通用しないスラング用語が、解説も無くでてきます。 複数のルールがお互いを参照してループになっています。 やってはいけないことと、やらなければいけないことは書いてありましたが、仕事のHowToは全く書いてありませんでした。
1990年入社直後のことです。 コ電規則集には、ソフトウェア開発手順で提出しなければならない仕様書が決められていました。 企画書、外部仕様書、説明書、内部仕様書の4つです。 企画書は管理職が書くとして、残り3つの担当は開発者です。
Webmasterは入社直後に命じられたソフトウェア開発で外部仕様書に続いて説明書を記述した所、黒田CSに怒られました。 「説明書なんて、書いてあることは外部仕様書と同じなんだ。外部仕様書と説明書は一つにまとめられる。お前は余計な仕事をした。」だそうです。 余計な仕事ならば、なぜコ電規則集に「記述しなければならない」とかいてあるのでしょうか。 当時から三菱電機にはコンプライアンスの概念がありませんでした。
1995年ころのことです。 当時のコ電規則集は、副部長村木BSのご自慢でした。 「我々が、ソフトウェア開発で唯一にして絶対の方法を規則化したものだ。」と主張していました。
Webmasterが制御製作所の一部門に異動になると、制御製作所規則集に書かれたソフトウェア開発手順がところどころ違っています。 Webmasterは制御製作所の部長に質問しました。
だれもwebmasterの疑問に答えられませんでした。 Webmasterに言わせれば、1960年代に大型計算機で給与計算プログラムを作成していたときのウォーターフォール・モデルの開発など、オープンシステム時代には通用しません。 システムで採用するハードウェアもライブラリもフレームワークも、仕様書通りに動いてくれない時代に、紙の上だけで設計が終わるわけがありません。 現場で必ず発生するトラブルをフォローアップするためのフィードバックループを持たない開発手順は、コ電も製電も1990年代当時から時代遅れだと思います。
1990年から以降のことです。 開発部門が作成したソフトウェアは、担当者が試験項目書を書いて自分でテストすることになっていました。 試験結果は品質管理部門に報告し、彼らのOkが出て初めて製品を出荷できます。 この品質管理部門の評価基準がタコでした。
品質管理部門の決めた『バグ数収束曲線』というものがあり、横軸に日付を取り縦軸にバグ検出個数を取ったグラフを書いて基準通りにバグの数が収束しないと、カーブの上にずれても下にずれても試験のやり直しとなって出荷できません。 Webmasterはバグ収束曲線に二つの疑問を持っていました。
バグ収束曲線の根拠を聞いても、品質管理部門は教えてくれません。 「このカーブの通りに収束するはずだ」の一点張りです。 おそらく、統計的な根拠があったのでしょう。
テストで検出するバグの数は、充分に多ければ統計的なカーブに乗るかもしれません。 確かに三菱電機㈱の平均的開発では、1500ステップほど書いて結合試験以降に数百のバグが出ていましたから、統計的な基準に当てはまるのかもしれません。 Webmasterの様に業界平均的なプログラマは、5000ステップ書いて結合試験以降に出るバグは十数件です。 統計的なカーブから外れる確率が高いことを、数学的に説明できます。
グラフの横軸が試験実施時間ではないことも疑問でした。 三菱電機㈱では、横軸に試験開始日からの経過実日数をとります。 間に休日があっても、出張があってもおかまいなしです。 仮にバグ収束曲線に根拠があったとしても、グラフの書き方が間違っているのではないでしょうか。
結局、現場では誰もバグ発生日付を正直に申告していませんでした。 正直に申告して試験やり直しになっても、部長から怒られるだけで担当者にメリットはありません。 みなさん、バグ収束曲線に乗るようにバグ発生日付を操作していました。 コンプライアンスなどくそくらえな会社です。
1990年から以降のことです。 ソフトウェアの試験工程では、仕上げに最終的な試験を行うことになっていました。 この最終試験でバグが発見されると、「試験品質が低すぎる。発見されたバグ1件につき、30件のバグが隠れているはずだから全部見つかるまで出荷させない」と言われます。 1件につき30件のバグの根拠をきいてみましたが、いつものように誤魔化されました。
ここからは1990年代前半にwebmasterが実装していたソフトウェアの話です。 最終試験の最中に部長のワガママで仕様変更がありました。 ソニー㈱では当たり前ですが三菱電機㈱では数年に一度のことです。 試験スケジュールは変更できないので、単体試験から超特急でやり直しました。 単体試験でバグが見つかったのですが、手続き上は最終試験の最中なので「30件の隠れたバグを発見せよ」と品質管理部門に言われました。
そんなにバグが隠れていないので途方に暮れていると、「品質管理部門には嘘を報告すれば良い」とアドバイスを受けました。 「発見したバグ1件につき追加で30件みつける」ことはだれも出来ていないので、架空のバグをでっち上げるのが三菱電機㈱の伝統だそうです。
1990年代のことです。 三菱電機㈱を退職した元社員の評判を落とすために、『2ちゃんねる』に業務で誹謗中傷を書き込む部門がありました。 2002年ころIPアドレスのハッシュ値を比較して、三菱電機元社員の誹謗中傷を書いている人物が業務時間中にMIND網のアドレスを使っているとバレそうになりました。 三菱電機㈱は、あわててMIND網からの『2ちゃんねる』への書き込みを全部フィルターすることにしました。
誹謗中傷役は、外部に委託することになりました。
1990年の会話です。
1時間あたり7000円の金額は、2000年には1万円になっていました。 誰にきいても根拠の数字が出てきません。 金にだけはこだわる会社ですから、会社の総出費を(述べ在場人数×時間)で割っているようなアバウトな計算はしていないと思います。 思いますが、未確認です。
Yahooのトップにあったリンクです。
三菱電機、子会社でも過労自殺 時間外月100時間超も氷山の一角ですね。 同じような報道が続かなければ、三菱電機のえらいさん達はホッとすることでしょう。
1990年代前半の話です。 副部長村木BSは、月に1回位のペースでパーティーを企画していました。 部の職員全員を招待して、会費5000円程度を集め、会社の福利厚生施設の宴会場を使っていました。 その宴会場は、50人程度が飲食する分には、一人あたり2000円で済む施設です。 毎回催されるBINGOゲーム大会の商品も、数が少ないので一人あたり1000円程度しかかかっていません。 差額はどこに行ってしまったのでしょうか?
Yahooのトップにあったリンクです。
三菱電機、新入社員が自殺 「死ね」記したメモ残す氷山の一角ですね。 同じような報道が続いても、三菱電機のえらいさん達は無視していることでしょう。
Yahooのトップにあったリンクです。
三菱電機社員、発表会直前に自殺 「パワハラ日常的」との声もコメントを引用します。
『横山信弘 | 7時間前
経営コンサルタント
13万人以上もいる三菱電機全体が「パワハラ日常的」というわけではないだろう。だから、企業にレッテルを張るべきではない。
これほどの大企業だ。個々の組織に独自の文化が芽生え、育つこともある。そういう場合、個人を罰するだけでも足りないし、企業全体で何らかの対策をしても、効果はない。電通の例でもハッキリしている。
個々の組織に焦点を合わせ、外部から特定組織の文化を変える努力が必要だ。』
横山氏は三菱電機で働いたことがあるのでしょうか。 平均2年毎に組織変更していて、関西と関東の社員をシャッフルしているから、どこへ行っても同じです。 他のブラック企業で働いた経験はあるのでしょうか。 ブラック体質の企業は、どの部署に行ってもブラックです。 それが企業文化だから、後から入社した者もすぐに染まってしまいます。 まともな人がいても、「悪貨良貨を駆逐する」状態です。 横山氏が言うところの「13万人以上もいる」「これほどの大企業」の全体が腐っているから問題なのです。 三菱自動車もそうだったでしょ。
1991年頃の話です。 大船地区のunixワークステーション開発は、HPのPA-RISCを使おうとする部とIntelのi386を使おうとする部の二つがありました。 もともとPA-RISCを使おうとする部隊から、村木BSが精鋭を引き抜いてIntel部隊を独立させたのです。
PA-RISC部隊は、1990年度以来の開発の蓄積がありましたが、Intel部隊には稼働するワークステーション本体も、アプリケーションもありません。 特にPA-RISC部隊にとっては、高畑CSが考案してwebmasterが実装した2重化LANが当時業界で唯一のLANケーブル障害回避システムとして売り込みのツールになっていました。
Intel部隊に行った黒田CSには、それが面白くありません。 Intelワークステーションを社外に売り込む時には、「2重化LANみたいなもの、我々だったら半年で開発できる」と豪語していました。 実際に開発に着手したようですが、1年経っても動きません。
こっそり、「PA-RISC用の2重化LANシステムをIntelワークステーションでも使わせてくれ」と言ってきました。 その話を課長から聞いたwebmasterが「Intel CPUで動かないようにソースコードを書き換えちゃおうかな」と言った所、課長、係長の顔が引きつっていました。 「Intel部隊から高い金をふんだくればいいじゃん」とも言われましたが、自分の懐に入るわけではないので納得いきませんでした。
1990年の話です。 黒田CSは、「俺は分散OSの論文をひととおり読んだ」と豪語していました。 当時でさえ数百通掲載されている論文の全てに目を通したことが信じられない上に、読んだはずの論文を理解していませんでした。 なんと、分散OSの名前としてMachしか出てこないのです。 1990年当時実績のないMachよりも、Spriteの方がよっぽど実績があるはずなのに、名前を知りません。 読んだはずの論文が、頭に入っていなかったのです。
2年連続ブラック企業大賞受賞おめでとうございます。 今年も陰ながらお呪い申し上げます。
1990年代に製造業でISO9000シリーズとISO14000シリーズを取得することが流行しました。 三菱電機㈱も流行りに遅れじと両方を取得しました。
ISO9000シリーズは、製造手順が規則どおりであることを求めています。 三菱電機では、製造工程での書類の種類が増え、会議の度に出席者の人数分コピーを提出することになりました。
ISO14000シリーズは、環境に配慮してエコな工程を要求します。 会社からは、毎年前年比で-20%コピーを減らすことを求められました。 5年後には32%しかコピー用紙を使えません。
ISO9000シリーズとISO14000シリーズが要求するコピー用紙の枚数は矛盾しています。 現場では即座に指示を無視することに決まりましたが、ISO9000シリーズISO14000シリーズ取得工場として宣伝していました。
1998年のことです。 Webmasterの年齢で、毎年会社が実施する健康診断のメニューが追加され、聴覚調査も始まりました。 聴覚調査の機材は当時よく見かけたもので、黒い片耳用のヘッドフォンに通知用の赤いプッシュボタンがついています。 ところが、ヘッドフォンの耳当てに相当するウレタンフォームがボロボロに崩れていて原型をとどめていません。 機材も全体にくたびれています。 「これで高音が出るのだろうか」と疑問に思った所、案の定高い方の音は出なくて測定対象から外されていました。 ケチもここまで来るとギネス級です。
1991年頃のことです。 Webmasterの隣の課では、unixサーバーを4台接続して無停止システムを実装していました。
Webmasterが高畑CSから2重化LANの試験を命じられたのですが、Ethernetインタフェースカードが1枚足りません。 高畑CSは、「無停止システムから1枚抜いてくればいいだろう」と指示を出しました。
無停止システムを試験している工場へ行って、rootの共通パスワードを入力して1台止めようとしたのですが、shutdown寸前で無限ループに入ってしまいます。 仕方がないのでもう一台シャットダウンしたら、それも無限ループに入ってしまいました。 無停止システム全体も2台が無限ループに入ったことで動作停止してしまいました。 三菱電機㈱のつくるシステムなんて、この程度の信頼性です。
1990年代のことです。
三菱電機㈱では、ソフトウェアの仕様書に図を入れると、『ポンチ絵』とバカにされました。 「ポンチ絵なんか入れずに文字だけで仕様を書ききるところが醍醐味」なんだそうです。 どおりで、矛盾だらけの仕様書、仕様を決めきれない仕様書、ページ数は多いけれど内容のない仕様書がゴロゴロしている会社でした。 自分で書いた仕様書を自分で理解できなくなる人たちでしたから、はい。
1990年代のことです。 三菱電機㈱では、ソフトウェアの寿命もバスタブ曲線として扱っていました。
バスタブ曲線は、もともとハードウェア部品の故障モードを説明する仮説です。 部品が製造された直後は、不良品が混在しているので故障率が高くなりますが、不良品が淘汰されると低故障率の期間がつづきます。 やがて部品が寿命を迎えると、故障率が上昇してゆきます。 縦軸に故障率、横軸に時間を取るとグラフが西洋のバスタブの断面に似ているため、バスタブ曲線と呼ばれます。
三菱電機㈱では、ソフトウェアの故障率もバスタブ曲線で管理していました。 Webmasterに言わせれば、ソフトウェアは寿命を迎えて故障率が上がることは考えにくいです。 ソフトウェアの寿命とは別に、システムも寿命は存在しました。 ハードウェアの寿命を迎えた時、システムを延命するためソフトウェアを別ハードウェアに移行することがあります。 実装から十年以上が経過しているので、実装した組織は解散し、担当者も全く違う部署にいます。 そこで、設計、実装した人と別人がソフトウェアの移行を行います。 ソフトウェアの中身も理解せずに「とりあえず動かせば良い」という発想でやっつけ仕事をするので、故障率が上昇するのでした。
1990年代のことです。 三菱電機のオフィスはフレックスタイムを導入していて、NHKの番組でも紹介してもらっていました。 これを突然禁止した部署があるのです。 なんでも、部長の一存で部単位でフレックスタイムを禁止することができるそうでした。
神戸地区のとある部長が出勤する時、たまたま目の前を歩いていた社員の態度が悪かったという理由で部のフレックスタイムが禁止になりました。 同じ部に所属する大船地区も禁止です。 おかげで、ラッシュアワーの電車に乗ることになりました。 部長個人の腹いせで部全体に迷惑がかかる会社でした。
1990年のことです。 社員のデスクには書類受けと呼ばれる箱が置いてあり、課内で回覧する書類などが置かれる仕組みになっていました。 なぜかwebmasterのデスクだけ、配布書類や回覧が書類受けではなくゴミ箱に入れられるのです。 犯人も動機も不明です。 Webmasterに落ち度があるわけではないので、ゴミ箱に入った書類は放置していました。
またこの行為を見習って、無価値な回覧はゴミ箱に入れることにしました。
1992年頃のことです。 社内のネットニュースに、「試作品なんてタダ同然で作れるのだから、自腹で作成して会社に提供すべき」という意見が流れました。 Webmasterが、「試作品がタダ同然とはどういう意味か。S/PDIFの光送受信モジュールなんてずっと使いたかったけれど、ずっと高値で1000円を切ったのはつい最近だ」と返信した所重ねて「試作品なんてタダ同然で作れる」と言われました。
そこで、webmasterは依頼しました。 「カーナビの画面を自由に回転、拡大縮小するデータ構造のアイディアがある(当時のカーナビは16bitCPUで、北か南が上に表示される2方向表示でした)。マップデータとカーナビ試作品と試作品の開発システムをタダ同然で揃えてくれ。 完成したらNICOGRAPHで論文発表しよう。」 すると、「タダ同然」を主張していた社員は黙り込んでしまいました。
2000年のことです。 この会社は、10年間勤めるとリフレッシュ休暇という名前の有給休暇がもらえるはずでした。 Webmasterは2000年9月に11年目になったのですが、リフレッシュ休暇はもらえませんでした。 本音と建前というヤツですね。
1992年頃のことです。 社内のネットニュースで、GNUSの読み方について知ったかぶりをしている社員がいました。 「みんなグニュースとか呼んでいるけど、グナスとかジーナスと読むのが正しい」との主張です。 Webmasterが、「GNUS実装者は『ニューズと読むのが正しい』と主張している。自分はnewsと紛らわしいのでグニュースと読む。グナスとかジーナスは電総研方面でのローカルな読み方だ。」と返信した所、黙り込んでしまいました。
三菱電機㈱の社員は、この手の知ったかぶりが大好きですが、間違いを指摘されると逃げます。
1990年代のことです。 Webmasterは渡邉GRから呼び出されました。 「今日の会議で話し合われる議題は、技術的に高度で話される内容が全くわからない。 君も出席して話を聞いておいて後で説明してほしい。 ただし、君に発言権はないから。」 だそうです。 三菱電機㈱の会議は、こんなものばかりでした。
1990年のことです。 三菱電機㈱では、毎日の作業時間をどの目的に消費したかの報告書を1週間毎に書くことになっていました。 1990年には黒田CSの命令で雑用ばかりしていたwebmasterは、作業時間報告書に正直に「雑用で毎日が潰れた」旨を記述していました。
それをチェックして激怒したのが黒田CSです。 「君が正直に作業時間報告書を書くと、私が上司に怒られるんだ! 嘘でもいいからプロジェクトに毎日7時間使ったことにしろ。 それが三菱電機㈱のルールだ」だそうです。
提出する意味のない作業時間報告書でした。
1990年のことです。 三菱電機㈱では、オフィスワーカーもQCサークル活動として小集団活動が勤務時間に義務付けられていました。 課長の指示で実施し、成果も業務時間内の発表会で発表します。
黒田CSはこの小集団活動が嫌いでした。 自分は全く参加しませんし、活動している場所にやってきて、「お前らは会社の金をドブに捨てている」と罵倒して解散させます。 「QCサークル活動はオフィスワーカーに不要だ」とする意見には同意できますが、本来小集団活動を強制している指示系統に文句を言うべきところを、現場に不満をぶつけていました。 結局、小集団活動にかこつけて弱い者いじめをしたかっただけです。
1990年代前半のことです。 SAP R3が導入されて、エンジニア全員が自分の作業時間内訳をその日の帰宅前に入力することになりました。 総務は省力化できるかもしれませんが、全エンジニアが毎日30分づつ取られるので会社全体では大損です。
しかも SAP R3 には大きな欠点がありました。 作業時間を30分単位でしか入力できないのです。 この頃は三菱電機㈱の標準勤務時間は1日あたり7時間45分になっていたので、毎日15分の半端が出ます。 システムで対応できなくて、毎月末に自分の全入力データに補正をかけることになりました。 SAP R3って使えません。
1990年代前半のことです。 渡邉CSが渡邉GRに昇進しました。 渡邉GRは、管理職になる前の10年間プログラマでしたが、一行もコードを書いていません。 技術資料を書かせれば、テクニカルタームを間違えて、顧客のコンペに落ちます。 そんな渡邉GRでしたが、社内では『優秀』と評判でした。 これが三菱電機㈱の実態です。
1990年代前半のことです。 役員会で「新規事業を始めるため、社内ベンチャーを募集しよう」という話が決まりました。 早速募集が始まったのですが、条件がショボいです。
最初の2年間に会社から2億円が支給され、2年後に黒字化していなければ取りやめです。 全社から企画を募集して、採用数は一つだけ、採用のためには数多い書類審査と役員面接も控えています。 あまりに条件がショボいので、1年間募集して応募はゼロでした。 当然の結果です。
1990年代前半のことです。 当時、並んだエレベーターの制御システムに群制御を組み込むことが流行っていました。 隣り合ったエレベーターが同じ階で同じ方向に止まらないように、時間差をつけるという触れ込みでした。
大船地区第2研究棟のエレベーターも群制御だったのですが、しょっちゅう同じ階で同じ方向に行こうとします。
もう一つ問題がありました。 ほぼ同じ階を上方向にエレベーターが進む時、上ボタンが押された階では先に到着したエレベータは必ず止まります。 もう一台のエレベーターは降りる人がいない限り通過します。 先に到着したエレベーターが満員でだれも乗れず、後から来たエレベーターが通過してしまうことがよくありました。
三菱電機㈱の作る制御システムなんて、この程度です。
1990年のことです。 同じ課の従業員は、誰一人イーサネットのイエローケーブルを見たことがありませんでした。 ワークステーションが増える度に、机の下に潜ってトランシーバーを接続するのもwebmasterの仕事になりました。
イエローケーブルをいじったことがない人ほど、ネットワークについて知ったかぶりします。 ワークステーションと10Base5トランシーバーを接続するケーブルのことを、ネットワークケーブルと呼びます。 Webmasterが何度も「これはトランシーバーケーブルと呼びます」と指摘してもムダでした。
1990年代前半のことです。 大船地区に第2研究棟ができました。 内部のエレベーターは最新です。
それまでエレベーターのインジケーターと言えば、今ケージが何階にいるかとどちら向きに異動しているかを示すものでした。 新しいエレベーターは、インジケーターが簡易です。 到着直前に「ポーン」と音がして、振り返ると上下方向のインジケーターのどちらかが点滅してケージの到着を知らせるものです。
Webmasterと上司のその時の会話です。
強者に甘く弱者に厳しい三菱電機です。
1998年ころのことです。 Webmasterは、原子力発電所で使用するHP-RT向けにデバイスドライバの改良をしていました。
1ヶ月の開発期間が終わり試験も終了した時、「改良されたはずの機能が死んでいるぞ」とクレームが入りました。 調べてみると、共有マシンに置いているソースコードが開発直前の状態に戻っています。 Webmasterがバックアップしておいたはずのソースコードもありません。
共有マシンを管理していたのは後輩なので、質問した所「そんなはずはない」と言い張ります。 どうせ、ミスオペレーションで消してしまった後、古いバックアップから戻したのを黙っていたのでしょう。 そういう会社でした。
1995年ころのことです。 Webmasterがお手洗いから帰ってきたら、置きっぱなしにしておいた通勤鞄を開けて漁っている同僚がいました。 貴重品を入れていなかったからよかったものの、油断も隙もない会社でした。
1993年ころのことです。 Webmasterが異動前に作ったシステムを、別のエンジニアがメンテしていました。 ソースコードの中で、下手にいじると誤動作するロジックがあり、コメントで"When you change this logic, read linked logic abc.c"と書いておきました。 案の定、担当エンジニアはソースコードをよく読まずに勝手に変更し、「システムが動かなくなったので直してくれ」とヘルプ要請が来ました。
1993年ころのことです。 Webmasterは仕事の都合上、何度も神戸地区に出張していました。
最初にwebmasterを神戸地区に連れて行ってくれた先輩が交通機関にタクシーを利用していました。 Webmasterも真似をしてタクシーを利用していたのですが、課長に「お前の出張交通費は高すぎる。タクシーではなくて電車を使え。」と言われました。 次の出張では、工場のすぐそばまで続いている電車を見つけて切符を買ったのですが、ホームで待っていても電車が来ません。 駅員に「この電車は朝夕の短時間しか来ないよ」と言われました。
結局タクシーで出勤したのですが、利用できなかった切符代はwebmasterの自腹になりました。
1993年ころの会話です。
1993年ころのことです。 雷雨の時に、AC電源の欠相(瞬停)がありました。 Webmasterの使っていたワークステーションは、スイッチング電源のキャパシタ容量が大きかったので無事でしたが、社内のあちこちでマシンの停止が起きました。
大船地区全体の被害金額をまとめて、東京電力に請求することになりました。 職場は大騒ぎです。 「普段は損害賠償する立場だけど、我社が請求できるなんて数十年に一度の事態だ」とのことで、みなさん張り切って損害集計をしています。 ウワサでは他の課で、瞬停が原因ではないトラブルの損害請求まで、東京電力におしつけたところがあったそうです。
1990年代前半のことです。 大船地区第2研究棟の東側に、古い建築物があって取り壊されることになりました。 ちょうど第2研究棟のリラクゼーションルーム(喫煙部屋兼休憩部屋)から見えるところです。
ほんの2ヶ月ほどで取り壊しは終わり、跡地は整地されて樹木(背の高いもので20mくらい)を植木屋が植えていきました。 ところが1ヶ月で樹木の殆どが撤去され、跡地に砂利を敷いて駐車場として使うことになりました。 さらに2ヶ月後、駐車車両を追い出して、建物の基礎工事が始まりました。 ほんの半年ほどで、2〜3階建ての鉄筋コンクリートの建物ができました。 最初の取り壊しからようやく1年ほどです。
たった1年で土地の使いみちがクルクル変わるところが、三菱電機らしいです。 長期計画なんて全く無くて、いきあたりばったりです。 植木屋への支払いも無駄になりました。
1991年のことです。 Webmasterの叔父が体を壊し、有給休暇をとって付き添うことになりました。 三菱電機㈱の有給休暇申請用紙には理由欄があって必ず書かなければなりません。
Webmasterは正直に「叔父の体調不良のため」と書いて提出しました。 すると、有給休暇当日に課長から電話がかかってきました。 「亡くなるようだったら、こちらも準備があるので早めに言ってほしい」とのことです。 「単なる体調不良で命に別状はありません」と答えると、「まぎらわしいから有給休暇の理由欄には『私用』と書くように」と言われました。 『私用』ですむなら理由欄を無くせばいいし、叔父の死亡時には忌引休暇を使うとwebmasterは思うのですが。
1990年代のことです。 毎年、健康保険組合が健康増進イベントとして、毎日の歩数を記録する月間を決めていました。 全員にすごろくのような塗りつぶしグラフが与えられ、毎日歩いた歩数に比例して塗りつぶします。 月の終わりに規定歩数に達した人には、健康保険組合から記念品が贈呈されました。
職場のほとんどは毎日遅くまで残業しているので歩数が伸びず、記念品をもらえません。 ところが、黒田正博CSだけは、毎年記念品をもらうのです。 塗りつぶしたグラフを見てみたら、朝8:30から終電まで仕事した日でも1万歩歩いたことになっていました。 自己申告って、嘘つきに優しいシステムですね。
1990年代前半のことです。 まだ公開鍵暗号は、広まっていない頃の会話です。
要求仕様が実現不可能なケースは、三菱電機あるあるです。
2000年のことです。 会社の事務職のチョンボで、役所からハガキが来て郵便局で手続きすることになりました。 自宅最寄りの郵便局は土日休みで、会社もフレックスタイムが使えないので、昼休みに会社の最寄りの郵便局まで行くことになります。
1時間続く昼休みに手早く食事をすませ、直線距離で600m先の郵便局まで坂道を走っていきました。 郵便局内で待たされたので、結局午後の始業時間までに職場に戻れませんでした。 さすがに、誰も文句を言えませんでした。
2000年のことです。 Webmasterは国防関係の開発をしていました。 国防関係でも特に重要な開発は、特別な部屋で行います。 入退室も、簡単にはできません。
特別な部屋と廊下の間にもう一つ入退室管理部屋がはさんであります。 まず、入退室管理部屋に入るのにカードキーが必要です。 入退室管理部屋に入ってから、カメラに顔を向けると、リモートで特別室のドアが開けられます。
特別室から出る時は、ドアノブに手をかけるだけで内ドアも外ドアも開けられます。
ところが、欠陥があります。 入退室管理部屋の内ドアと外ドアを同時に開けられるのです。 入る人と出る人が入退室管理部屋の中で出会い、退室はできるけど入室できなくなってしまいます。 これで何度も時間を無駄にしました。
2000年のことです。 Webmasterのところにヘルプ要求が来ました。 「外注にSparkStationのDATデバイスドライバを書かせているが、全く動かない。様子をみてくれ。」とのことです。
実際に4人が作業しているところに見に行きました。 SUN OSのデバイスドライバについては全く実装経験も知識もなかったのですが、見せてもらったソフトウェアがカーネル内のタイミングAPIを叩いている様子がありません。 まるでアプリケーションのように作成しています。 とりあえず大船地区の研究所からカーネルに詳しい人を呼んで見てもらいました。
やっぱり「デバイスドライバとしての作法に則っていない」とのことで、全面書き直しになりました。 三菱電機㈱の外注も管理する方もこの程度です。 研究所のエンジニアには、「この程度のことで研究所をあてにするな」と怒られました。
1990年のことです。 オフィスの片隅に、見慣れない社員が一日中立っていることがありました。
あとから事情通に聞いた話ですが、オフィスにいる社員がどの作業に何時間使っているか記録しておいて、自己申告の作業時間報告と突き合わせるそうです。 そんな無駄な作業に人を配置できるのが、三菱電機㈱です。
1990年のことです。 米国出張を控えた黒田CSが小松氏に言いました。 「俺がアメリカ出張することを知ったら、みな馬乗りになって用事を言いつけやがる。」
標準語で「尻馬に乗る」を関西弁では「馬乗りになる」と表現するそうです。
1990年のことです。 入社前のwebmasterは、三菱電機の部長と雑談をしていました。 当時エンジニアの間では、16bit CPUを扱うのにIntelのx86アセンブラはセグメントがややこしく、32bitフラットアドレスのMotorolaの方が使いやすいという意見が大半でした。 それを踏まえた部長の発言です。
「IntelよりもMotorolaの方が使いやすいという奴がいるが、売上をより上げているのはIntelだ。 我々はIntelを担ぐ。」
確かにIntelの方が売上は上でしたが、三菱電機の売上ではありません。 三菱電機がIntelのCPUを採用しようがやめようが、Intelの総売上高には大した影響はありません。 業界勢力図に忖度してIntelにすりよっても、三菱電機の売上が上がるわけではなく社内のエンジニアが疲弊するだけです。 そんなことも分からない部長でした。
1990年のことです。 Webmasterはひどい風邪をひいて、連続して有給休暇をとっていました。 二日目にも職場に電話して、「今日も休みます」と言ったところ、執務の女性に「金曜日まで休んだら?」と言われて「そうします」と答えました。
翌週の月曜日に出社すると、黒田CSから文句を言われました。 「やすむんだったら、ちゃんと連絡しろ。わざわざ心配したじゃないか。俺に心配なんかさせるな。」
どうも、執務の女性が上司に伝え忘れていたようです。 三菱電機社内の連絡なんて、この程度のいい加減さでした。
1996年頃のことです。 課長が突如1ヶ月の長期出張になりました。
なんでも、30年前に設計した原子力発電所のコンピューターシステムを入れ替えるのに、当時のシステムを知っているのが課長しかいないそうで、急遽呼び出されました。
課長がいなくても、それまでの仕事の続きはできていましたが、新しいプロジェクトは全部課長が帰ってくるまで止まっていました。
1994年頃のことです。 職場の女子社員が結婚して姓が変わりました。 本人は取引先に説明していたのですが、同僚には黙っていました。
ある日webmasterがとった外線電話で、課の社員に該当しない名字の人に「代わってくれ」と言われました。 「そんな社員はおりません」と言ったら、女子社員の旧姓を言われました。 ビジネスマナーとして、これはアリなんでしょうか。
1996年頃のことです。 Webmasterが1ヶ月で5000ステップのソフトウェアを組み上げたところ、シ開2渡邉GRに呼び出されました。 「君ならこの2倍は書けるはずだ。手を抜くんじゃない」
ちなみに三菱電機㈱の生産性は、1人月200ステップです。
1994年頃のことです。 ユーザーの要求仕様を設計するSEから「2重化LANをケーブル1本で使えないか?」と質問が来ました。 2重化LANは、イエローケーブルを2本引いて全てのマシンにLANインタフェースを2枚用意する冗長化システムです。 Webmasterは「本来の設計目的から外れること」「実装前にきちんと動作テストすること」を条件に認めました。
納品後、エンドユーザーから「正しく動かない」とクレームが入りました。 現場で確認すると、納品したマシンでは片方のLANインタフェースが故障しても、正常な方のインタフェースが故障箇所向け通信まで受け取ってしまいます。 その結果、故障が発生しても故障箇所が検出できていなかったのでした。
現場で「実装前にきちんとテストするように言っておいたのに動作テストしなかったのか?」とSEに質問すると、ゴニョゴニョ言ってごまかされました。 その後、SEからwebmasterの上司にクレームが入って、「2重化LANのくせにケーブルを一本化したくらいで動かないのはおかしい」と言われました。 何を言っているのかwebmasterには意味不明です。
1990年のことです。 社内では何故か技術力のあるエンジニアよりも、社内英検の点数の高いエンジニアの方が偉そうな顔をしていました。 村木BSも社内英検の点数が高い方で、日常生活でわざわざ Oops! とか Ouch! とか言っていました。 それが鼻についてうんざりしたので、webmasterもわざと真似して村木BSの前で Oops! とか Ouch! とか言うようにしたところ、露骨に嫌そうな顔をしていました。 Webmasterに言われたくないのに、自分では積極的に言うところが、意識だけ高い系のマウンティングです。
1990年代のことです。 三菱電機㈱鎌倉製作所の敷地の中央を、JRの引き込み線が通っています。 1日に1回位の頻度で、踏切が降りて車両が通過します。 通過はノロノロしていて5分から10分かかります。 6人の人が10分待っていたら毎日7000円の損害ですが、会社はなにも対策しません。
Yahooのトップに朝日新聞DIGITALの朝日新聞社によるリンクを見つけました。
三菱電機がコメント「不適切な検査が判明」 鉄道各社は対応追われる引用します。 『三菱電機は、長崎製作所(長崎県時津町)で製造する鉄道車両用の空調設備の一部について、不適切な検査を行っていたことが社内調査で判明し、現在、調査を進めている、とのコメントを公表した。「速やかに対応を進め、内容を公表する予定」としている。』
三菱電機なんて、webmasterが働いていた頃から不正の温床でした。 今回バレたのは、氷山の一角です。
1990年のことです。 村木BSは事あるごとに、「俺は情報処理技術者特種を持っているんだ」と威張っていました。 威張っていましたが、情報処理技術者特種を取得するために勉強したはずのことが全く理解できていません。 スパイラル開発を提案しても、ウォーターフォールモデルを頑なに主張し譲りません。 あるだけ邪魔な資格でした。
1990年のことです。 三菱電機の新しいビルのトイレには赤外線センサーがついていて、無人になると照明が自動的に消えます。 体調が悪い時に個室に入って下を向いていると、赤外線センサーの視界から外れて照明が消えてしまいます。 三菱電機の技術はこの程度です。
1990年代のことです。 大船地区では、会社が補助金を出して英会話講習を安く受けられるようになっていました。 場所は第2研究棟の会議室で、毎週火曜日の定時後2時間です。
申請書類を提出するので、課長は自分の部下が英会話講習を受けていることを知っているはずです。 なぜか、英会話講習を受けている社員ばかり、毎週火曜日に残業を命じられていました。 結局、会費を払ったものの出席回数は半分にもなりません。 だれが得していたのでしょうね。
1990年代のことです。 大船駅の近くには、情報電子研究所のある大船地区と、コンピューター製作所、鎌倉製作所のある鎌倉地区の二つの敷地がありました。 歩いて移動すると地区間で20分くらいかかります。 コンピューター製作所や鎌倉製作所は情報電子研究所を下請けに使っていたので、地区間の社員移動は頻繁にあるのですが、連絡バスすらありません。 ケチ菱電機なんてこんなものです。
1990年代のことです。 社内のUUCPニュースで技術論が話題になることもありました。 よくあるパターンは、自分の知識をひけらかしてマウントを取りに来ることです。
ある日イエローケーブルのインピーダンス50Ωについて話題になりました。 「イエローケーブルを通るのは10Mbpsの信号だからDC抵抗が公称値と同じとは限らない」という話です。 Webmasterは、イエローケーブルもターミネーターもテスターを使ってDC抵抗を測ったことがあったので、「DC抵抗も公称インピーダンスと同じ50Ω」だと指摘しました。 その後もグチグチ言っていたので、「社内のエンジニアのために自分が読んだ参考書籍を紹介したらどうか」と提案したところ、「機密文書だから他の人は読めない」とか言っていました。
ソニー㈱のエンジニアは8割がこのてのマウンダーですが、三菱電機にも少数いるのです。
1990年代のことです。 課長に報告書を出したら文句を言われました。 「報告書がA4で3ページもあるのは多すぎる。1枚で済ませろ」
次の報告書でまた文句を言われました。 「1枚では何が書いてあるのかわからん。別紙に詳細を書け」
その次の報告書でまた文句を言われました。 「本文と別紙に別れていて読みづらい。1つにまとめろ」 どうしてほしいのかさっぱりわかりません。
1990年代のことです。 uucpニュースのfjを読み書きできる環境では、MINDに誓約書を出すことになっていました。 「営利目的で使わない」「個人の権限で発言する」などです。 当時のfjの規約そのものでした。
1990年代後期になってからです。 ようやく会社がIP接続するようになると、MINDから「営業目的以外のネット利用を禁止する」という通達がでました。 でも、fjを読み書きしていたときの誓約書は破棄されていないのでまだ有効です。 「規約を変更するなら社内に告知しろ」「規約を変更するなら古い誓約書を破棄しろ」と要求したのですが、MINDに無視されました。
三菱電機㈱にとって、誓約書とは破って構わない約束だったようです。
1990年のことです。 黒田CSは、出身地の明石市を自慢していました。 「日本の中心は、東経135度の明石市だ」だそうです。 「関東なんて日本の僻地まで来て仕事してやってるんだ」そうです。 聞かされているみんなは「さっさと明石市に帰ればいいのに」と思っていました。
1990年代前半のことです。 社内のネットワークで、「GCCは他のCコンパイラに比べて機能的に優れている」という投稿が出ました。 3項演算子を式の左辺値に使えることなど、他のコンパイラにできないことがたくさんできるそうです。 Webmasterは、「投稿中で優れていると言っている機能は、全部ANSI規格で禁止されているのにGCCが勝手に拡張した機能である。『勝手仕様を比較して他のコンパイラより優れている』とは、比較手法が不公平である」と指摘したところだまりました。
1990年のことです。 Webmasterは、リクルートの情報誌を見て三菱電機㈱の中途採用に応募しました。 なぜか、面接は1週間おきに8回もありました。 つくづく決断力のない会社です。
1991年頃のことです。 100億円を超えるプロジェクトを成功させたとして、プロジェクトの全平社員に1万円が支給されることになりました。 ところがいくら待っても、支払われません。 数カ月後『記念品』と書かれたアクリルパネルの置き時計が平社員に配られました。 アクリルパネル中央のムーブメントは、街中で500円で買える安物腕時計です。 電池交換できないので、電池が切れたらおしまいです。 差額はどこに消えたのでしょうか。
1990年頃のことです。 黒田CSの企画で、HP-UX kernelメンテナンスのエキスパートシステムを作ることになりました。
kernelトラブルの現象を入力すると、原因を推定してくれるシステムです。 Webmasterは、kernelトラブルの原因など無数にあるし、原因を特定するためにインタビューすべきエキスパートはいないし、インタビューを実行するマンパワーもないので、反対しました。 結局プロジェクトは、エキスパートシステムのGUIだけ動きましたが、エキスパートシステムも中身の知識DBも動きませんでした。 聞いた話ではエキスパートシステムの製作者が過去の黒田CSで、自分が作成したシステムに無理やり光をあてたかったそうです。
1991年頃のことです。 プロジェクトでHP-UX 8.0のワークステーションを使用していました。 ところが、当時のテープ回覧のフリーソフトを移植すると、バグが出ます。 Webmasterが独自に追跡した結果、Hewlett Packard社のCコンパイラにバグが見つかりました。
ANSI規格ではC言語のstatic変数は、ソースコードで明示的に初期化されない限り0に初期化されなければなりません。 ところが、HPのCコンパイラで作ったバイナリは、static変数がランダムな値でした。 そのため、0に初期化されることを期待しているフリーソフトは、全滅でした。
Webmasterは、プロジェクト全体に通知したのですが、だれもwebmasterの言うことを理解できませんでした。
1999年頃のことです。 新しい配属先では、MC68020のマルチプロセッサをVMBUSでつないで使っていました。 OSはVxWorksで、上からはIP通信に見えるけど、マルチプロセッサの共有メモリを使ってプロセッサ間の通信を実施するドライバのデバッグを手伝わされました。
共有メモリの前方を使っているときは問題ないのですが、メモリの最後尾にパケットが到達すると必ずバグります。 移植担当者に報告したところ、共有メモリの後方にはワークエリアのデータがあって、間違ってIP通信のパケットで上書きしていたのでした。 三菱電機㈱の現場で出るバグなんて、こんなものです。
1991年頃のことです。 Hewlett PackardのHP-UXワークステーションをOEM供給されて売るための企画会議にて。
確かに当時のNISの信頼性は低かったのですが、三菱電機㈱のエンジニアが試験したくらいで見つかるようなバグもありませんでした。
1990年のことです。 Webmasterは、三菱電機の管理職と8回に渡る面接を経て、採用されました。 研究所への配属を希望していたのですが、人事の占部氏は「あなたに最もふさわしい配属先が決まりました」と言ってコ電に配属しました。 初日に上司の黒田正博からいわれたことは、「お前が前職で何をしてたか知らんが、俺はそんなもの認めんからな」でした。
1990年のことです。 職場でTeXを使っていて、印刷に大日本印刷社のフォントを利用していました。 ところが、大日本印刷社にフォントの使用権料を支払っていないのです。 Webmasterが指摘したところ、課内のワークステーションから大日本印刷のフォントが削除されて、印刷は隣の課のワークステーションを使うことになりました。 もちろん、隣の課もフォントの使用権料は払っていません。 三菱電機㈱は、こういう会社です。
2000年のことです。 上司に、「レーダーを使った航空管制システムにSUNのJavaを使いたい。試しに使ってみてくれ」と言われました。 さっそく、自分のワークステーションにJavaをインストールしたところ、EULAが表示されて「人命に関わるシステム例えば航空管制システムには使えません」とハッキリ書いてありました。 そんなことも事前調査しないのが三菱電機㈱です。
1999年のことです。 Webmasterは社内の健康診断を受けました。 最後に内科医の問診があって、その時の会話です。
社員と同じくらいやる気のない産業医でした。
2004年ころのことです。 Webmasterのところに、SEGA社からQRコードの応用システムの打診がありました。
マンパワーが必要なので、NTマイクロシステムズ社を紹介してNT社で引き受けることになりました。 SEGAからハードウェアの試作依頼が来たのですが、NT社にはハードウェアのエンジニアがいません。 社長から関西の会社を使うように言われました。
この関西の会社は、三菱電機㈱をスピンアウトした数名で立ち上げた会社だそうです。 SEGAの要求仕様として、動画カメラのRAW出力からリアルタイムに画像データを取り出すシステムを発注しました。 ところがこの会社は、SD品質のTVカメラからNTSC信号を受け取って、キャプチャー基板で画像化する設計を提出しました。 「要求仕様と違う」と突っ返したところ、「SEGAはハードウェアを判っていない」とか顧客のせいにします。 ひどい会社でした。 ここで名前を晒そうと思ったのですが、なぜか当時の名刺が見つかりません。
1990年の会話です。
三菱電機㈱の優秀なBSはこの位バカです。
2010年頃の話です。 Webmasterが、Electroartこと田力氏と共同で『USBケーブルでDSDデータを伝送する世界初のUSB DAC』を発表した時、㈱KORGのWEBサイト(トップからワンクリックで行けるところ)に嫌味を書かれました。 「DSDは登録商標だから素人が勝手に使うな」とか「俺達は長期間DSDを研究しているんだ」などです。 名指しは避けていましたが、書かれていた内容からしてwebmaster以外の人には該当しない嫌味でした。
当時の㈱KORGのドメインはkorg.co.jpなので、WEBキャッシュを探す人は注意してください。
2011年の話です。 トラ技のLV-1.0プロジェクトに田力氏の紹介で途中参入しました。 田力氏以外初対面の人ばかりでしたが、JRCの広告企画部部長並木克美氏が、webmasterの顔をチラチラみながらトラ技編集長にしきりに耳打ちしていました。 いわゆる『感じ悪い』態度です。 世間知らずのエンジニアにはよく見かけますが、広告企画部長が初対面でこういう態度を取る会社は、全く信用できません。
耳打ちの話をネットに公開した翌日に、自宅の近所でJRCの営業車を見かけました。 松戸で見かけたのは初めてです。 「ネガティブイメージでもよいから、会社名を宣伝したい」という意識でしょうか。
一緒に『世界初のUSB伝送ネイティブDSD再生DAC』を作った田力氏とは、共同でビジネスを進める予定でしたが突然連絡が途絶え、某楽器メーカーのようにブログに嫌味を書かれました。 オーディオ自作界では、「田力氏の手のひら返し事件」と呼んでいる人もいるそうです。
直接確認したわけではないのですが、複数のニュースソースから聞いた話です。
Windowsで音声を再生する時に、ソフトウェアでオーバーサンプリングするテクニックがあります。 一般にはオーバーサンプリング手法としてFIRフィルタを用いますが、独自方式として8次方程式で補間するアプリケーションを配布している和田氏という人がいます。
和田氏とは一度もお会いしたことがないのですが、「和田氏がwebmasterの誹謗中傷しているから気をつけな」という忠告を複数の人から聞きました。
USBでDSD伝送した直後に、ふとしたきっかけからオーディオ評論家の御田氏とメールのやり取りをするようになりました。
しょっちゅう「あれを調べてくれ」「これを作ってくれ」とタダ働きを持ちかけられるので、お互い様のつもりで「お友達のRatoc社長を紹介してください」とお願いしたことがあります。 すると大激怒して、ブログで「身の程をわきまえないメールをもらった」と書いていました。 共通の知人であるIさんからは、「御田氏はオーディオ業界でも評判のエキセントリックな人だからまともに取り合わないほうが良い」とアドバイスをいただきました。
このカテゴリーに当てはまる会社や人物はたくさんあります。 今、思い出しながらリストを作っているところです。
なにしろ突然連絡が途絶えるので、相手が何を考えているのか全くわかりません。 通信手段の異常かもしれませんし、返信したくない事情が急に発生したのかもしれません。
何かがおきているのに、それが何なのかわかりません。 気分は、押井守と森山ゆうじのコミック『とどのつまり』の主人公です。 過去webmasterに選択権がまわってきた状況などほんの僅かしか無く、いつも脚本家と演出家のいいなりで行動しているのに、事態は悪化する一方です。 どんなオチが待っているのでしょうね。 コミックの主人公は、自分の動機すら見失っていましたが、webmasterの動機は単純です。 「生まれたからには生きてやる(The Blue Heartsの歌『ロクデナシ』の歌詞より)」です。 目標は、「自分の生活費を自分で稼ぐことと、健康で文化的な最低限の生活を送ること」です。
ここに書かれていることを自分で確認したい人がいるかもしれません。 ヒントを書きます。
1980年代後半に、SONY会長の盛田さんが葉山マリーナに係留したヨットの近くに自分のヨットを係留したSONY社員はいませんか? その社員が葉山マリーナで盛田会長とばったり出会った後、どんな人事異動が発生したでしょうか?
2000年代に、人事異動の時期でもないのに突然子会社に転属になったVAIOの課長はいませんか? 同時期に彼の部下だった派遣社員女性がSONY正社員になっていませんか?
2017年7月22日 初出
2023年4月25日 追記