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要旨

IT企業がほとんどブラック化してしまった話は、あちこちに書いてきました。 Webmasterが感じていることを、的確に表現している書籍もいくつか出版されているので、ここに紹介します。

橋本治 著 上司は思いつきでものを言う

散歩の途中でふらっと立ち寄ったBookOffの88円コーナーで見つけました。

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2004年に出版された本ですが、日本人の特質を上手に説明しています。 理屈中心の本ですが、ユーモアをまじえた丁寧な解説文なので、一般の人でも読みやすいでしょう。 逆に、文章から理屈を抜き出すことを職業としているwebmasterにとっては、同じ説明が繰り返されてちょっとくどく感じました。 ときどき技術解説の記事を書く身分としては、この文体を参考にしたいです。 もっとも某編集部に提出できたとしても、「記事が長すぎる」とか判断されて無断で切り刻まれて、結論まで差し替えられたりするのですが。

筆者はサラリーマンの経験がないそうですが、中間管理職のありがちな思考を見事に説明しています。 社員の典型的思考パターンをなぞることで、日本の会社が非効率的である説明になっています。 Webmasterが常日頃主張していることと一致する内容もありましたし、漠然と感じていたことを見事に説明していた部分も、新たに気付かされたところもありました。

日本人の思考パターンを儒教にさかのぼって説明していたことや、無意識に全体主義に参加しているという指摘も、webmasterが日頃主張していること(WEBに書いたことではなくてプライベートの知人とトークする内容です)と一致します。 欲を言うと、儒教と農耕文化のコンビネーションがもたらす無意識の安定志向(昭和の「巨人、大鳳、卵焼き」の前2つはプロスポーツ界でいつものチームや選手が勝つことを期待していますよね)まで踏み込んで説明して欲しかったと思います。

あと、書かれたことがリーマンショック以前であること、IT業界のブラックさ加減を筆者がご存じないことが物足りないです。 企業経営者の自己中度合いは、2004年の比ではありません。 イマドキの経営者は、「今現在、自分自身の周りだけ良ければ、後は知らない」という態度をとります。 わかりやすい例が、次期アメリカ大統領のトランプ氏です。 アメリカファーストは、アメリカ大統領の主張として当たり前とも言えますが、目の前の短期的利益だけに着目して、長期的繁栄や、アメリカを中心とした経済圏まで考えが及んでいません。 一見して『アメリカから金が出て行っている』ように見える現象でも『まわりまわってアメリカに返ってくる』ということに気づいていないようですね。 「安物買いの銭失い」「情けは人の為ならず(本来の意味のほう)」なんですけど。

そのほかでは、国際社会での日本の立ち位置についても楽観的すぎると思います。 国際社会とは、価値観の異なる国が集まってエゴがぶつかり合っている場所です。 日本国内の常識を持ち込んだら負けます。 空気を読んだら大国の都合で押し切られます。 相互理解のためには、最初に自分の立ち位置を理屈で説明できなければなりません。 文化が異なるのだから共有できる価値観が少なくて、感情に訴える方法は通用しません。

チーズはどこへ消えた? バターはどこへ溶けた?

チーズ本は、有名な啓発本です。バター本はそのパロディです。 2冊一緒に読もうと思っていたら、バター本が著作権違反で訴えられて書店から消えてしまいました。 両方を同時に古本屋で購入できたので、レビューします。

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2冊分の評価と、パロディ裁判について書きます。

チーズ本

素朴な内容の教訓が書かれている本です。 詳細は各自で読んでもらうとして簡単に筋書きを説明すると、「迷路に住んでいるネズミ2匹と小人2人が、いつもの場所にチーズを見つけられなくなった。その後どのように判断してどのように行動し結果がどうなったか」という話です。

Webmasterにとっては新しい発見は全くありませんが、イマドキの経営者に読ませてみたいとは思いました。

この本に感化された人ならば、「2匹と2人の登場人物(あるいは動物)のうち、君自身は誰に当てはまると思う?」と聞いてくるでしょう。 Webmasterの個人的意見ですが、「日本では2人の小人は政治家と官僚、ネズミは経営者に相当する。日本の労働者はチーズか迷路に相当するね。」と答えます。

バター本

形式はチーズ本そっくりですが、全く違う主張をしています。 さらに自分の主張の途中でチーズ本の主張を茶化しながら否定もしています。 冒頭から皮肉全開ですので、ここで「ついていけない」と思った人は読まないほうが幸せでしょう。 Webmasterは大笑いしながら読み進めました。

最近の人にこういう話をすると、2つの典型的な反応が返ってきます。

  • 「バター本は、上から目線でチーズ本を見下しているのか?」
  • 「バター本は、チーズ本の重箱の隅をつついて揚げ足取りしているだけだろう」

Webmasterはどちらの考え方にも同意しません。 『考え方に上下関係がある』『他人の考えを否定するのはいかなる場合でも許されない』というスタンスをとらないからです。 価値観は、階段を登っていくように一直線につながっていたりはしません。 その人が置かれている、経済状況、人間関係、健康状態で、同じ人の中でも価値観はぐるぐるまわっているものです。 一人の人がチーズ本に感心することもあれば、バター本に感心した後でまたチーズ本の考え方に戻ってくることもあるでしょう。

ソフトウェア開発の用語で言えば、ウォーターフォールではなくてスパイラルです。 堂々巡りしているのではなくて、PDCAサイクルを回しながら常にその場に(あるいは将来を見越して)最適な判断を下す必要があると思います。

パロディ裁判

Webmasterは、次のように考えています。

  • バター本が訴えられて敗訴した状況は、マッド・アマノ氏のパロディコラージュが著作権侵害だと判断された状況と同じ。
  • 構造としては、法律が主観を扱えないために、一般の人の感覚と一致しない判決が出てしまった。 法律に頼って形式的に判断を下す日本の現行裁判制度の限界。

マッド・アマノ氏のパロディ裁判最高裁判決が出た後に、タモリが秀逸なコメントをしていたので記憶から引用します。 「この判決をわかりやすく言うと、パロディで元ネタがわかってしまったから著作権侵害と言われている。 これは、モノマネ芸をしている人に『誰のまねをしたかわかるモノマネ芸は著作権違反』と言っているようなもの。」

パロディとは、元ネタを形式的になぞりながら、全く別の主張を盛り込む表現だと思います。 昔FILM1/24で半谷的生氏がカリオストロの城の批評を書いたとき、簡潔に説明していますね。 ここのところを勘違いしている人が多いようです。 多くの人が勘違いしてしまう理由は、『別の主張を盛り込んである』かどうかは主観的にしか判断できないため、パロディを鑑賞した全員が同じ判断をするとは限らないからです。 そういう意味では、以前フジテレビでお笑いタレントがやっていた番組や、有名アニメーション作品の登場人物にエロを演じさせるだけの2次著作は、形式を借りていても別の主張を盛り込んでいないのでパロディではないと思います。 名前をつけるなら『ごっこ遊び』です。 スーパーマリオネーションの自称パロディにおいて辻村ジュサブローの人形と混同した番組を見たことがありますが、形式的になぞることすら失敗していますね。

次に、裁判は客観的評価しかしない話です。 裁判には公平性が求められます。 誰が裁判官になって裁いても、別の被告が同じ状況になったときも、同じ判決を出すことが求められています。 その根拠となる法律の文言も、書かれている判断基準も、誤解の少ない客観的なルールでなければなりません。 構造的に、裁判は客観的に評価できるものしか取り扱わないことになります。

日本人は、つい融通のきいた『大岡裁き』を期待してしまいますが、それは危険です。 法律の文言を逸脱した判断を下してしまうと、同じ状況でも判事によって別の判決が出るかもしれません。 大岡越前のような『庶民の味方』を期待して裁判所に行って、裁判官席に『悪代官』がいる危険にも備えた裁判制度を作らなくてはなりません。 形式主義的に法律文言に従って判断する限り、『大岡越前』だろうが『悪代官』だろうが、同じ判決しか出せない仕組みになっているのです。 この仕組みのもとでは『悪代官』が悪意から間違った判決を出すことがあっても、第3者が判決の誤りを形式的に判断できるので訂正する手続きもあります。

以上の経緯により、見る人によって評価が変わる『パロディ』の存在価値は、裁判では扱えません。 形式的には、『パロディ=パクリ』の扱いになってしまうので、著作権違反という判決になります。 おそらく、判決を下す裁判官ももどかしい思いをしていることでしょう。 『パロディ』を文化として成立させるためには、著作権についてもっと深く考えて法律の文言を起こす必要があります。

2017年1月13日 初出

2017年4月3日 追記

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