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要旨

IT企業がほとんどブラック化してしまった話は、あちこちに書いてきました。 Webmasterが感じていることを、的確に表現している書籍もいくつか出版されているので、ここに紹介します。 映像作品も追加しました。

橋本治 著 上司は思いつきでものを言う

散歩の途中でふらっと立ち寄ったBookOffの88円コーナーで見つけました。

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2004年に出版された本ですが、日本人の特質を上手に説明しています。 理屈中心の本ですが、ユーモアをまじえた丁寧な解説文なので、一般の人でも読みやすいでしょう。 逆に、文章から理屈を抜き出すことを職業としているwebmasterにとっては、同じ説明が繰り返されてちょっとくどく感じました。 ときどき技術解説の記事を書く身分としては、この文体を参考にしたいです。 もっとも某編集部に提出できたとしても、「記事が長すぎる」とか判断されて無断で切り刻まれて、結論まで差し替えられたりするのですが。

筆者はサラリーマンの経験がないそうですが、中間管理職のありがちな思考を見事に説明しています。 社員の典型的思考パターンをなぞることで、日本の会社が非効率的である説明になっています。 Webmasterが常日頃主張していることと一致する内容もありましたし、漠然と感じていたことを見事に説明していた部分も、新たに気付かされたところもありました。

日本人の思考パターンを儒教にさかのぼって説明していたことや、無意識に全体主義に参加しているという指摘も、webmasterが日頃主張していること(WEBに書いたことではなくてプライベートの知人とトークする内容です)と一致します。 欲を言うと、儒教と農耕文化のコンビネーションがもたらす無意識の安定志向(昭和の「巨人、大鳳、卵焼き」の前2つはプロスポーツ界でいつものチームや選手が勝つことを期待していますよね)まで踏み込んで説明して欲しかったと思います。

あと、書かれたことがリーマンショック以前であること、IT業界のブラックさ加減を筆者がご存じないことが物足りないです。 企業経営者の自己中度合いは、2004年の比ではありません。 イマドキの経営者は、「今現在、自分自身の周りだけ良ければ、後は知らない」という態度をとります。 わかりやすい例が、次期アメリカ大統領のトランプ氏です。 アメリカファーストは、アメリカ大統領の主張として当たり前とも言えますが、目の前の短期的利益だけに着目して、長期的繁栄や、アメリカを中心とした経済圏まで考えが及んでいません。 一見して『アメリカから金が出て行っている』ように見える現象でも『まわりまわってアメリカに返ってくる』ということに気づいていないようですね。 「安物買いの銭失い」「情けは人の為ならず(本来の意味のほう)」なんですけど。

そのほかでは、国際社会での日本の立ち位置についても楽観的すぎると思います。 国際社会とは、価値観の異なる国が集まってエゴがぶつかり合っている場所です。 日本国内の常識を持ち込んだら負けます。 空気を読んだら大国の都合で押し切られます。 相互理解のためには、最初に自分の立ち位置を理屈で説明できなければなりません。 文化が異なるのだから共有できる価値観が少なくて、感情に訴える方法は通用しません。

チーズはどこへ消えた? バターはどこへ溶けた?

チーズ本は、有名な啓発本です。バター本はそのパロディです。 2冊一緒に読もうと思っていたら、バター本が著作権違反で訴えられて書店から消えてしまいました。 両方を同時に古本屋で購入できたので、レビューします。

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2冊分の評価と、パロディ裁判について書きます。

チーズ本

素朴な内容の教訓が書かれている本です。 詳細は各自で読んでもらうとして簡単に筋書きを説明すると、「迷路に住んでいるネズミ2匹と小人2人が、いつもの場所にチーズを見つけられなくなった。その後どのように判断してどのように行動し結果がどうなったか」という話です。

Webmasterにとっては新しい発見は全くありませんが、イマドキの経営者に読ませてみたいとは思いました。

この本に感化された人ならば、「2匹と2人の登場人物(あるいは動物)のうち、君自身は誰に当てはまると思う?」と聞いてくるでしょう。 Webmasterの個人的意見ですが、「日本では2人の小人は政治家と官僚、ネズミは経営者に相当する。日本の労働者はチーズか迷路に相当するね。」と答えます。

バター本

形式はチーズ本そっくりですが、全く違う主張をしています。 さらに自分の主張の途中でチーズ本の主張を茶化しながら否定もしています。 冒頭から皮肉全開ですので、ここで「ついていけない」と思った人は読まないほうが幸せでしょう。 Webmasterは大笑いしながら読み進めました。

最近の人にこういう話をすると、2つの典型的な反応が返ってきます。

Webmasterはどちらの考え方にも同意しません。 『考え方に上下関係がある』『他人の考えを否定するのはいかなる場合でも許されない』というスタンスをとらないからです。 価値観は、階段を登っていくように一直線につながっていたりはしません。 その人が置かれている、経済状況、人間関係、健康状態で、同じ人の中でも価値観はぐるぐるまわっているものです。 一人の人がチーズ本に感心することもあれば、バター本に感心した後でまたチーズ本の考え方に戻ってくることもあるでしょう。

ソフトウェア開発の用語で言えば、ウォーターフォールではなくてスパイラルです。 堂々巡りしているのではなくて、PDCAサイクルを回しながら常にその場に(あるいは将来を見越して)最適な判断を下す必要があると思います。

2017年4月29日追記 PDCAについて

PDCAについて世間に誤解が蔓延しているようなので、 解説 を書きました。

パロディ裁判

Webmasterは、次のように考えています。

マッド・アマノ氏のパロディ裁判最高裁判決が出た後に、タモリが秀逸なコメントをしていたので記憶から引用します。 「この判決をわかりやすく言うと、パロディで元ネタがわかってしまったから著作権侵害と言われている。 これは、モノマネ芸をしている人に『誰のまねをしたかわかるモノマネ芸は著作権違反』と言っているようなもの。」

パロディとは、元ネタを形式的になぞりながら、全く別の主張を盛り込む表現だと思います。 昔FILM1/24で半谷的生氏がカリオストロの城の批評を書いたとき、簡潔に説明していますね。 ここのところを勘違いしている人が多いようです。 多くの人が勘違いしてしまう理由は、『別の主張を盛り込んである』かどうかは主観的にしか判断できないため、パロディを鑑賞した全員が同じ判断をするとは限らないからです。 そういう意味では、以前フジテレビでお笑いタレントがやっていた番組や、有名アニメーション作品の登場人物にエロを演じさせるだけの2次著作は、形式を借りていても別の主張を盛り込んでいないのでパロディではないと思います。 名前をつけるなら『ごっこ遊び』です。 スーパーマリオネーションの自称パロディにおいて辻村ジュサブローの人形と混同した番組を見たことがありますが、形式的になぞることすら失敗していますね。

次に、裁判は客観的評価しかしない話です。 裁判には公平性が求められます。 誰が裁判官になって裁いても、別の被告が同じ状況になったときも、同じ判決を出すことが求められています。 その根拠となる法律の文言も、書かれている判断基準も、誤解の少ない客観的なルールでなければなりません。 構造的に、裁判は客観的に評価できるものしか取り扱わないことになります。

日本人は、つい融通のきいた『大岡裁き』を期待してしまいますが、それは危険です。 法律の文言を逸脱した判断を下してしまうと、同じ状況でも判事によって別の判決が出るかもしれません。 大岡越前のような『庶民の味方』を期待して裁判所に行って、裁判官席に『悪代官』がいる危険にも備えた裁判制度を作らなくてはなりません。 形式主義的に法律文言に従って判断する限り、『大岡越前』だろうが『悪代官』だろうが、同じ判決しか出せない仕組みになっているのです。 この仕組みのもとでは『悪代官』が悪意から間違った判決を出すことがあっても、第3者が判決の誤りを形式的に判断できるので訂正する手続きもあります。

以上の経緯により、見る人によって評価が変わる『パロディ』の存在価値は、裁判では扱えません。 形式的には、『パロディ=パクリ』の扱いになってしまうので、著作権違反という判決になります。 おそらく、判決を下す裁判官ももどかしい思いをしていることでしょう。 『パロディ』を文化として成立させるためには、著作権についてもっと深く考えて法律の文言を起こす必要があります。

山崎将志著 残念な人の思考法

この本は、タイトルもジャンルもwebmasterの興味から外れています。 BookOff Onlineで安く売っていたので、世の中の人は何を考えているか調べるために買ってみました。

残念な人の思考法

Webmasterは根っからの理系人間で、自然科学の思考法が染み付いています。 自然科学の観点から、この本には気になる点がいくつかありましたので、書いてみます。

残念な人って誰?

タイトルにも書いてある『残念な人』について、まったく定義がありません。 理系的なアプローチでは、まず『著者が定義する残念な人』について説明し、『残念な人がこの世に存在することを証明』できて、初めて本論に入ることができます。 この2つが省略されているということは、『残念な人に対する世間一般の共通認識が存在する』という暗黙の前提を筆者が持っているようです。

冒頭で、『能力があるけど仕事ができない人』について述べていますが、その分類が『残念な人』とイコールなのか、他にも『残念な人』がいるのかは、読んでいてもわかりません。

具体論が出てくるけど

話は、具体例を並べながら進んでいきます。 成功者を取り上げて、筆者が成功の理由と思うことを書いています。 失敗者も取り上げて、筆者が失敗の理由と思うことを書いています。

こういった論理の展開を読んで、理系だったら次の疑問が浮かぶでしょう。

この点をスルーしているので、理屈が我田引水的に響きます。

この説明の仕方は、占いの本が自己正当化する方法と全く同じです。 占い本は、画数占いでも星占いでも、理論を正当化するために冒頭に具体例を書いています。 「自分の提唱する占い方法で芸能界のオシドリ夫婦を占ったら良い結果が出たし、離婚した夫婦では悪い結果が出た」という具合です。 これは自分に都合の良い結果だけに着目しているので、自分の提唱する理屈が常に正しい証拠としては不十分です。 具体例に上がらなかった世の中全部の夫婦について調べたら、占いに反する結果が出るかもしれません。 全部の夫婦とは言わないまでも、せめて統計的に有意となる件数を調べておかないと、マスコミの世論調査レベルにも達しません。

筆者が考える成功について違和感

『残念な人』の定義がなくて読者と筆者が共通認識を持っていることを前提に話が進むと同時に、『成功』と『失敗』についても明確な説明がなくて共通認識が要求されます。

本文に書かれている『成功』の記述からwebmasterが読み取ったことは、『現代日本で経済的に豊かになること=成功 と考えているらしい』ということです。 早い話が「勝てば官軍」の価値観で経済的に成功した人を持ち上げています。 経済中心の目線で書かれた新聞、雑誌、ネットニュースによくある視点です。

ここで抜けている視点は、

というところです。

調度良い例が、ネットニュースにありました。 「正直すぎる発言」で身を滅ぼす残念な人たちです。 政治家の失言ニュースをツカミにして、『正直な発言で損害を受けた例』を3つあげています。 政治家の失言(社会的弱者への無理解)と正直な発言(正確な情報の伝達)が生む軋轢を結びつけるあたり、もう怪しさが漂います。

3つの例のうち先の2つは『現場の人間が顧客の質問に正直に答えたら、会社が隠していた情報だったので取引上不利になった』という例です。 会社が情報を隠していたのなら、現場にも顧客へ伝えて良い情報と隠す情報をきちんと明示しておく必要があります。 指示を出し忘れて、情報漏れのフォローにも失敗して、正直者の責任を追求するのは、よく起きることですけど管理職の無責任です。

3つめはさらに悪質です。 『社内の影でバカにされていた人物に、その事実をほのめかす情報を与えたら、バカにされた人からもバカにしていた集団からも総スカンをくった』という例です。 この総スカンに対して、記事の筆者は「因果応報」とか「沈黙は金」とか主張しています。 「因果応報」だったら、報いを受けるべきは『影で人をバカにしていた集団』の方ではないでしょうか。

現実の問題として不正があるのに、不正を正直に認めた人間を吊るしあげるのは、無理があります。 確かに今の日本は無理が通って道理が引っ込んでいますけど。 最近だけでも具体例として、都職員が隠していた2つの破綻プロジェクトとか、東芝の会計とか、三菱自動車の偽装とか、マンションの杭打ちデータ偽装とかあります。 全部不正を隠し続けたせいで、取り返しがつかないほどの事態になっています。

「身内の不正は隠すべきもの」という現代日本の価値観が間違っている良い例だと思います。 立派な企業の社名を背負ったコラムでも、ときどきこの手の悪質な論評が載るのは何故なんでしょうか?

話を書籍の方に戻すと、『現代日本のルールに適応すること』がどれほど重要なのかよく考えたほうが良いでしょう。 経済も国際政治も激動している時代に、いつまで今のルールが有効なのかwebmasterにはわかりません。

ダーウィンの進化論は『突然変異と淘汰による環境適応』を進化の原因としていました。 でも、特殊な環境に過剰適応した種は、次の環境変化に生き残れません。 集団移動するレミングの一部のように海で溺れ死ぬか、サーベルタイガーのように絶滅するのがオチでしょう。

成功した人を後付の理由で持ち上げてみたり、失敗した人を後付の理由で叩くことは、報道の世界でもしょっちゅう行われていますが、単なる提灯持ちですね。 夏目漱石の小説『坊っちゃん』で言えば、赤シャツについて行くのだいこです。 Webmasterは、生卵を投げつけて船で帰ってくる方が性に合います。 ばあやにおみやげ買うのを忘れないようにしないと。

東宝製作のアニメーション うる星やつら劇場版 ビューティフルドリーマー

内閣府が2017年7月22日に発表した報告書には、世界経済は「穏やかに回復している」と表現されているそうです。 世界経済は別にして、今まで延々と「日本経済は回復基調にある」と聞かされて実感のわかないwebmasterは、ずっと既視感を覚えてきました。 既視感の原因としてようやく思い出したのが、この作品です。

一部のコアなファンには説明の必要が無い、見る人を選ぶ作品です。 ストーリーの前半は、なぜか繰り返し毎日学園祭前日の準備作業を迎えて、何日経っても学園祭当日が来ないというシチュエーションです。 現代日本は、景気回復の前日を延々と30年位繰り返しているところでしょうか。

シー・ハリアーに乗って日本経済を見下ろしてみると、丸い地球の上で世界経済と連携していると思っていた日本経済が、巨大な亀の甲羅に乗っていたりして。

儒教に支配された中国人と韓国人の悲劇

タイトルから中身が予想できる本ですが、著者がこの本に『何を書かなかったか』を知りたくて、読んでみました。

最初にwebmasterのスタンスを明確にしておきます。 過去に関わった外国人(大学で会った留学生やビジネスで出会った人)とのやり取りを思い返してみて、中国人も韓国人も日本人もみんな『良い奴もいれば悪い奴もいる』と思います。 スネークマンショーのネタに似ていますけど、正直な感想です。 同時に、景気の悪い2010年代の日本にあえて来日する外国人ビジネスマンは、何らかの事情を抱えているとも思います。 具体的には、対立政党から大統領が選ばれたため米国で活動しにくくなって日本に避難してきた米国VIPとか、技術を盗みに来た産業スパイとか、日本の味方も敵もいます。

本に書かれていた内容は、タイトルから予想できたとおりでした。 韓国、中国に対する批判と日本に対する礼讃で埋め尽くされています。 その根拠はニュース報道で見たネタもありますし、初めて目にするけど本当かどうか確認できないネタもありました。 この手のネタの集め方に絶対中立な基準を定義することはできないと思いますが、この本では偏って選んでいるように見えます。 中国の自己中な価値観を『中国独特の中華思想』と批判していますが、現代日本の経営者も9割が同様の考え方をします。 韓国では「自分は常に正しく周りは悪い人」という思想が広まっていると批判していますが、現代日本の中間管理職の多くも同様の意見を持っています。 「人のふり見て我がふり直せ」的な指摘に見えました。 ただ、それぞれの指摘において『儒教』が問題ある価値観のルーツだと気づいた点は、評価すべきでしょう。

また第5章では、「中国が日本国内で世論誘導の工作をしている」と書いていますが、webmasterの認識と一致します。 日本国内での中国だけでなく、世界中の多くの国で別の国が世論誘導している事例があります。 米国では『ロビー活動』と呼ばれて、立派な経済活動になりますし。 筆者は日本が外国で同様の世論誘導を行わない理由として、「誠実や謙虚という美徳を大事にしているから」と書いていますが、ここは同意できません。 日本でも外国における世論誘導の重要性を認識している人はいると思います。 でも、内弁慶の日本人に秘密工作目的の組織と予算を与えてしまうと、本来の目的から外れて国内のライバルを蹴落とすために悪用するような気がします。

この本の中では日本に儒教の価値観があることを否定していますが、ここまでの内容を書ける筆者ならば、日本にも儒教からくる問題価値観があることに気づいていると予想します。 あえてその点から目をそらして日本礼讃の本を出版していますが、筆者が本当にケント・ギルバート氏であるならば、米国に報告済みではないでしょうか。 そうだとして、報告先はどこでしょうか? 国防機関?CIA?それとも大統領の側近でしょうか? 大統領の側近だとして、オバマ氏?それともトランプ氏? いろいろ気になります。

風の谷のナウシカ(コミック版)

劇場版アニメと違って、コミック版は大変読みでのある中身の濃い作品です。 なぜか、webmasterと異なる解釈をしている人が多いので、書いてみます。

2018年1月2日、Yahooのトップから以下のリンクを見つけました。

意外と知らない「宮崎駿作品」の読み解き方

作品の最後で主人公が下した決断について、最終巻が発行された直後の朝日新聞に掲載された書評とほぼ同様の解釈をしています。 2018年のリンクの方を引用します。 『最終刊を読んで、僕はひっくり返るくらい驚きました。  「腐海が役割を終えたあとにやってくる平和な時代」を宮崎駿は否定しているのです。』

この書評を読んで、webmasterはひっくり返るくらい驚きました。 「腐海が役割を終えた後にやってくる時代について、ナウシカが今後の人類に委ねた」という解釈をしていないのです。

1993年12月20日発行のナウシカ6巻P.94の最期の2コマからナウシカの発言を引用します。 「1000年かもっとたって あなた(webmasterの注 腐海が浄化した世界のこと)がもっと広く強くなっていて 私達が亡びずにもう少しかしこくなっていたら その時こそあなたの元へやって来ます」 このセリフと前後のコマからwebmasterが読み取った行間は、「今の人類は腐海が浄化した世界を再度汚してしまうほど愚かなので、浄化された世界を維持するには種としてもっと賢くならなければならない」というナウシカの感想です。

1995年1月15日発行のナウシカ7巻P.200の途中のコマからナウシカの発言を引用します。 「神というわけだ お前は千年の昔 沢山つくられた神の中のひとつなんだ そして千年の間に肉腫と汚物だらけになってしまった 絶望の時代に理想と使命感からお前がつくられたことは疑わない その人たちはなぜ気づかなかったのだろう 清浄と汚濁こそ生命だということに 苦しみや悲劇やおろかさは清浄な世界でもなくなりはしない それは人間の一部だから...」 ここでナウシカは以下の指摘をしています。

以上よりwebmasterが読み取ったナウシカの決心は、「現状の生命全てを受け入れよう。地球を滅ぼすのも再生させるのも、これからの人類次第。1000年前に敷かれたレールの上を走るのは、同じ過ちを繰り返すようなもの。過ちを繰り返さないために、生命を選別するような思い上がったプロジェクトだけは焼き払う。」です。 Webmaterの作品解釈を他人に押し付けるつもりはありませんが、単一の解釈で「ナウシカのラストは絶望」だと決めつける前にいろいろ考えたほうがよいと思います。

解釈がWebmasterと他の人で異なる理由の一つは、ナウシカの決心が作品中に間接的にしか表現されていないからでしょう。 Webmasterがナウシカのコミックを読んで印象に残ったことは、ナウシカのブレない態度です。 最初から最後まで、「まず他者を愛する」というポリシーを貫き通しています。 他者には、蟲、敵兵、土鬼の民、蟲使い、トリウマ、巨神兵など生き物全部を含みます。 そして、他者との融和を拒み続けたラスボスだけは、ナウシカの手で滅ぼされます。 直接セリフで表現されていないものの、「他者を愛さない限り、他者から愛されない」という宮崎駿の強烈なメッセージを感じます。

作品中に直接語られない情報を積極的にディテールから拾わなければ、クシャナの兄皇子や実父、土鬼の皇帝兄弟もただの嫌な悪役になってしまいますし、巨神兵に与えられた調停者としての役割も見落としてしまう上、ナウシカが皆から愛された理由もわからないでしょう。 現実世界でも表面ばかり見ているから、宮崎駿のことを『感性だけが優れた変人』扱いしてしまうのです。 Webmasterには、ナウシカ程の緻密な物語を組み立てられる宮崎駿に論理的思考能力が欠けているとは思えません。 むしろ、感性とロジックが高いレベルで調和している人物だけに生み出せる作品群を創造しているように思えます。 あまりにもレベルが高すぎるために、一般の人に理解してもらえないのではないでしょうか。 俗に言う「時代のさらに先を行っている人」だと思います。

リンク先に気になる表現があります。 『2016年11月13日に放映されたNHKスペシャル「終わらない人 宮崎駿」ではIT企業の人たちが、人工知能技術を活用した少し気持ち悪い動きをするCG生物を、宮崎監督に対してプレゼンしました。それを観た宮崎駿は、「生命に対する侮辱を感じる」と怒り出しました。その番組を見た視聴者は、「ああ、やっぱり宮崎駿はヒューマニストなんだ」と感心したかもしれませんが、筆者の見方はちょっと違います。人工知能によるCGを観て、宮崎駿は大きな衝撃を受けた。宮崎駿という機械の内部では歯車が回りだし、その衝撃を「何か」に変換しようとしている。』

NHKスペシャルはwebmasterも見ました。 Webmasterが読み取った宮崎駿の感想は以下です。 「生物を模写するつもりで創造したCGが、気持ち悪い動きになってしまった。 クリエーターの意図しない気持ち悪さを面白がっている人達がいる。 こんなものを面白がる人達は、ナウシカより1000年前に科学技術を過信した物語上の人々と変わらないではないか?」 例によって、webmasterの意見に同意してもらわなくてもかまいませんが。

リンク先の記事を書いた岡田斗司夫氏にもうひとつ伝えたいことを書いて終わりにします。

「作品の価値は、発表直後に稼いだ金額では決まりません。 死後に評価が高まった芸術家が何人もいることがその証拠です。」

2018年3月25日追記 リンク先の記事が引用部分を残して大幅に書き換えられているのを見つけました。 もう、岡田斗司夫氏へのメッセージは伝わったようなので主張を取り消しますが、履歴は残します。

羽生善治 大局観

将棋の永世七冠を獲得した羽生氏が、2011年に出版した書籍です。

書かれている内容は、羽生氏の主観からくる経験則が中心です。 将棋の世界で勝ち残るためのノウハウだったり、広く世界と関わる方法だったりします。 今回この本を取り上げたのは、羽生氏の主張にある単語を置き換えると、そのままIT業界のSE心得として通用しそうだと考えたからです。

目次に乗っている見出しを一部引用してみましょう。

これだけでも奥深い含蓄に富む言葉が満載です。 しかも、webmasterの35年を超えるSE経験とピッタリ当てはまります。

最近の意識高い系は、エビデンスのない他人の主観をやたら軽視しますが、そもそも将棋の棋士の仕事は一人のなかで完結しているので、主観が根拠でも勝ち続ければ説得力を持ちます。 Webmasterは意識高い系とは逆に、自分の中に一本の確たる柱を持ち、それを他人に言葉で説明できる羽生氏を尊敬します。

自分の仕事を振り返ると、ITシステムの設計は最初に一人の人間が一貫性のある視点で全体を企画し、その後レビューとして集団が設計ミスの発見、修整をします。 ITだからといって、理論化された設計マニュアルがあるわけではありません。 設計を集団で行ったりすると、各人の思い込みで設計された仕様を組み合わせる時点で齟齬が生じて、そのすり合わせにとてつもない時間がかかります。 設計ミスの発見は、設計者と発想の異なる人が関わると効率が良くなり、人数を増やすほど効率が良くなります。 最初の設計も、レビューも属人性の高い能力が必要とされ、有能な人はいつも効率よく仕事しますし、ダメな人はいつでも成果を出せません。

大企業の管理職は認めたがりませんが、ITの設計は将棋の棋士並みに属人性の高い労働集約型頭脳労働なのです。 有能な人の仕事をより給料の安い人で置き換えると、アウトプットの品質は確実に落ちます。

意識高い系経営者に踊らされて、人件費をケチる目的で能力のない人に設計させたシステムはたくさんあります。 Webmasterも、そういったシステムが納期過ぎても稼働できない炎上現場に援軍として呼び出されることがしょっちゅうですが、最初に設計書に目を通して設計のダメなところを直させるところから始めます。 骨格がしっかりしていない限り、いくら筋肉だけ鍛えてもスポーツの世界で成功できないようなものです。

すべてのSEがwebmasterに同意するとは期待していませんが、SEとして仕事の方法論で行き詰まった人は、この本に目を通すことをお勧めします。

盛田昭夫 石原慎太郎 「No」と言える日本

初版が発行されたのは1989年になります。 当時、話題になりました。

先日、神田古書店市が開催された期間に御茶ノ水駅脇の古書店で見つけて買いました。 全体を通して読んだのは初めてです。

ほぼ30年経過した現代の目線で見ると、今でも通用する内容と、それ以外に分けられます。

現代でも通用する内容

本書の趣旨です。 P.140盛田氏のパートから引用します。 『日本は主張すべきことは堂々としていいと思うのです。 日本という社会は長い間「沈黙は金」という教育を受けてきたから、多少何か言いたいことがあっても、じっと我慢をする。 我慢をせずに、私のようにすぐ文句を言うと、ほうぼうで叩かれるという運命になります。 石原さんも言いたいことを言う方ですから、ときどきいろいろなところでぶつかるわけですが、我慢などという美徳は西欧ではまったく通用しません。 私は、日本は石原さんが言われたように、大いに言いたいことを、また、言うべきことを言わなければならない。 そうでないと、日本のアイデンティティはなくなると思うのです。』

P.159石原氏のパートから引用します。 『その同心円になる方法はなにかと言うと、中曽根さんがやったような個人的なグッド・パフォーマンスではなくて、日本が大事なことでアメリカに向かってはっきり「ノー」と言い切ることで、それによって日本人の世界観というものも変わってくるような気がしています。 日本人は、自ら発した日本の「ノー」を自覚することで初めて大人の日本人として世界の仲間入り、同心円としての世界の中の円に入ることが可能になると思います。』

異文化とコミュニケーションする時に、言うべきことをはっきり言わなければならないのは、webmasterも肌で実感しています。 同時に、日本国内にはKYだの忖度だの、無言で価値観の共有を期待する文化があります。 海外と対峙するときも、国内で意思疎通するときも、これからははっきり意思表示すべきだと思います。 太鼓持ちのコバンザメが出世するような企業文化を続けている限り、日本に明日はありません。 盛田氏もそのことがよくわかっていたはずなのに、足元のSONYでは1989年にはもう組織の腐敗が大きく進んでいました。

現代には通用しない内容

盛田氏も石原氏も、本書が出版された1989年のバブルイケイケ文化に染まっていて、「日本が世界一で当たり前」「日本の繁栄が長期的に続く」と考えています。 事実は我々が知っているように、バブルは終わって30年近くも元気がないままです。 景気が良いのは、企業内留保と株価だけです。

二人の筆者は、当時の米国の価値観を批判しています。 「10分先を見ているが、10年先を見ない経済界」とか「経営者だけに高額な報酬を与える社会」などです。 残念なことに、これらの欠点はバブル崩壊後の日本にも無批判で導入されました。 盛田氏が自慢していた「日本の家族的企業経営」は、お膝元のSONYでも実行されていません。 むしろ、米国は自分の失敗から学んでいるのに、日本はバブル崩壊後もなにも学ばずにバブルの再来を祈り続けているように見えます。

1989年の時点で2018年を予見できなかったことは、批判すべきではないでしょう。 でも、1989年時点での勘違いをいまだに引きずっている日本の政界、経済界は、反省すべき点がいろいろあるはずです。

越谷オサム 階段途中のビッグ・ノイズ

青春小説の王道です。 今現在青春真っ只中の人と、いくつになっても青春小説を読んで恥ずかしさを感じない全ての大人にお勧めします。

ストーリーも舞台装置も落ちも、特別なネタは用意されていません。 その代わり、青春小説に必要なもの全てが詰め込まれています。 主人公の挫折から始まり、仲間集め、壁への挑戦、熱いエネルギー、意見の衝突、和解、周囲の無理解が応援へと変わっていく瞬間、エッセンスとしての恋愛などなどです。 あと、登場人物が語る音楽論には、筆者のこだわりがでているかも。

クライマックスで大化けする某登場人物も、小説を読み慣れた人ならば登場時にフラグがたっているのがわかります。 この越谷オサム氏の小説は、一見ラノベのような少ない登場人物とシンプルなストーリーですが、実は大量の伏線が組み込まれています。 軽妙でシンプルな語り口だから読みやすいのに、読み込むと読者サービスが沢山用意されているのです。

Webmasterは、第1章と最終章の出だしの一文が全く同じだったので、「ニヤリ」としました。 全体に小難しい理屈を考えることなく、楽しい気持ちになれます。 Webmasterのお気に入りのキャラは、一直線な性格の伸太郎と徹です。 校長先生にはシビレました。 憧れます。

山本ちず著 だから潰れた!

バカ経営者が会社を潰す過程を、一社員の立場から見つめた実話です。 この会社の場合は、潰れた原因が単純です。

これにつきます。

Webmasterも、つぶれそうなベンチャー、バカ経営者など山ほど見てきたので実感できます。 はっきり言って、今の日本企業の経営者は大企業でも中小企業でも9割がこの程度です。 大企業の社員は「うちは違う」と力説するでしょうが、経営者と直接会ったことがないから幻想を抱いているだけです。 大企業になるほど、経営者がバカをやっても現場からは見えず、愛人を10人づつ囲っても、費用は収益のほんの一部だから経営に影響しないだけです。 日本企業なんて、偏差値の高い大学出身者を集めてバカのふりを競い、一番バカになれた人が出世していくところです。 Webmasterの経験からいくらでも具体例を挙げられます。

例えば、Sonyの課長が契約社員にセクハラをして左遷になったことがあります。 彼は、アーキタイプというインキュベーター会社の力を借りて、ベンチャー社長に収まり、愛人に給与を支払っています。 2018年冒頭にアーキタイプ社員がwebmasterに暴言を吐いたので、webmasterはこのセクハラ社長のことを指摘しました。 アーキタイプ社員は「知らなかった。調査する。」と言っていましたが、ほぼ1年経つ現在でも返答がありません。 「知らなかった」というのは言い訳で、これ以上言い訳のしようがないから連絡してこないものと考えられます。 日本の経営者なんて、9割がこんなものです。

さべあのま作 ネバーランド物語

コメントなしで、この作品を全てのSONY社員に贈ります。 理由は、SONY正社員になれるほど高学歴高偏差値の人には、読めばわかります。 いつものように、わかっているのにわからないふりをする人は出てくるでしょうけど。

2017年1月13日 初出

2019年6月10日 追記

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